8.夜を駆ける
今日は本社会議の日だった。
重要事項の説明が長引き、会合は中止となり、
会議が終わったのは夜の19時過ぎ。
店はすでに閉まっている。
絵里奈はメンバーに必要な連絡を入れると、
足早にビルを出て伊織にラインを送った。
今、やっと終わった。これから帰る。
了解〜
地下鉄に乗り込んだ瞬間、突然の停電が起きた。
車内が一瞬で闇に沈み、あちこちから短い悲鳴が上がる。
数秒後、非常灯がぼんやりと灯り、
薄いオレンジ色の光が乗客の不安げな表情を照らした。
「落ち着いてください」
「順番に降りてください」
駅員の声が響き、乗客たちは列を作って避難を始める。
絵里奈もその流れに従い、ゆっくりとホームへ上がった。
地上に出ると、いつも通りの喧騒が広がっていた。
車のライト、信号の色、行き交う人々のざわめき。
日常の光に触れた瞬間、胸の奥がふっと緩む。
「よかった…」
だが、東京駅まではまだ距離がある。
タクシー乗り場に向かうと、すでに長蛇の列だった。
停電の影響で足止めを食った人々が押し寄せているのだろう。
このままでは、いつ乗れるかわからない。
ふと視線を上げると、バス停の案内板が目に入った。
そこにははっきりと「東京駅行き」の文字。
迷う理由はなかった。
絵里奈は小走りでバス停に向かい、
ちょうど来たバスに滑り込むように乗り込んだ。
座席に腰を下ろし、ようやくスマホを取り出し、伊織にラインを送る。
-東京駅には行けそう-
送信すると、すぐに返信が来た。
-了解。着いたら連絡して。-
その短い言葉に、胸の奥がじんわり温かくなる。
-了解。-
返信を打ち終えた瞬間、バスが静かに動き出した。
短いやりとり。会えば話せるからこそ、ラインはいつも簡潔だ。
東京駅に着いたものの、新幹線は人身事故で運休していた。
構内のアナウンスは繰り返し「本日の運転再開は見込めません」と告げている。
今日中の帰宅は、もう絶望的だった。
とりあえず漫画喫茶に入り、始発を待つしかない。
受付けを済ませて、個室に入る。
スマホを取り出した時、ちょうど伊織から電話がかかってきた。
伊織に、状況を説明する。
「迎えに行くよ」
「え、今から?」
驚きと戸惑いが混じった声を出した瞬間、通話はぷつりと途切れた。
絵里奈は、改めて伊織の優しさを考えた。
伊織はいつも優しい。
きっと、こうして色んな人に優しくしてきたのだろう。
その優しさに、どれだけ多くの人は救われてきただろう。
けれど。
その優しさが、彼を疲れさせてしまったのではないか。
あまりに、可哀想だ。
私は、どうなの?
彼に対して、私も優しさに甘えていないの?
いつかきっと、彼はまた疲れ切ってしまうの?
胸の奥に、かすかな痛みが走る。
だが、ふと気づく。
甘えているだけなら、今こうして胸が締めつけられるはずがない。
彼が来てくれるなら、今度は自分が包めばいい。
そんなことを考えているうちに、
うとうととしてしまった。
午前0時過ぎ。
スマホが震えた。
絵里奈は、ハッとしてスマホを見た。
-今、東京駅-
あわてて、漫画喫茶を出る。
東京駅のロータリーに銀色のメルセデス。
ハザードを点滅させ、伊織が立っていた。
会いたかった。
絵里奈は駆け寄り、何も言わず抱きついた。
「お、おい…」
照れながらも背中に手を回してくる伊織。
会いたかった。
ただそれだけだった。
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車は首都高から東北道へ。
バックミラーに映る後部座席の絵里奈は、眠っている。
静かな車内、アンビエントの音楽。
分不相応だと思っていたこの車も、今では心地よい。
やがて目を覚ました絵里奈が言う。
「…お腹すいた」
次のパーキングエリアで夜食を買い込み、今度は助手席へ。
ハイボールを片手に笑う彼女。
パーキングエリアから出て、本線に合流する。
絵里奈は、楽しそうに、はしゃいでいた。
夜を駆けるメルセデス。
その車内にいる二人は、確かに恋人、だった。




