78.「逃げる道理は無い」――正面玄関から踏み出した銀狼の守護。記者を圧した“繋がれた手”と、再起への第一歩。
面談室の中は、外の喧騒から切り離されたように静かだった。
産業医は資料を閉じ、穏やかな声で切り出す。
「では、水原さん。まずは現在の体調と、復帰にあたってのご希望を伺えますか」
絵里奈は背筋を伸ばし、膝の上で指を軽く組んだ。
一瞬だけ迷うように視線が揺れたが、すぐにまっすぐ産業医を見た。
「今まで通りの業務に戻るつもりです」
その言葉は、強がりではなく、覚悟の重さを含んでいた。
産業医は表情を変えず、しかし注意深く頷く。
「今まで通りというのは、現在のポジションとしての通常業務、という理解でよろしいですか」
「はい。体調も安定していますし、業務内容にも問題はありません」
産業医はメモを取りながら、慎重に言葉を選ぶ。
「気持ちとしては理解できます。ただ、復帰直後は負荷が読みにくい時期でもあります。無理をして再発するケースも少なくありません。会社としても、段階的な復帰を提案する可能性がありますが、その点についてはどうお考えですか」
絵里奈は少しだけ息を吸い、静かに答えた。
「段階的な復帰が必要なら、もちろん従います」
産業医はしばらく沈黙し、彼女の表情を確かめるように見つめた。
「わかりました。では、医学的な観点から見た“可能な範囲”と、会社側の受け入れ体制をすり合わせていきましょう」
面談は淡々と続いていく。
しかし、絵里奈の胸の奥では、ようやく一歩を踏み出した実感が静かに灯っていた。
産業医は資料を閉じ、少し姿勢を正した。
ここからが本題だと言わんばかりの空気が流れる。
「水原さん。医学的には復帰可能と判断できます」
「はい」
「ただし、会社側から、ひとつ条件が提示されています」
絵里奈はまぶたをわずかに動かし、静かに聞き返す。
「条件ですか?」
「はい。ご存じの通り、現在GM職は代行の方が務めています。その方が業務を継続するか、あるいは水原さんに職務を戻すか」
「…」
「最終判断は、会社とその代行者の合意による、という形になります」
一瞬、空気が止まったように感じられた。
絵里奈は表情を崩さず、しかし胸の奥に小さな痛みが走る。
「つまり、私が戻りたいと言っても、すぐにGMに復帰できるわけではない、ということですね」
産業医は頷く。
「ええ。ただし、これは“あなたを疑っている”という意味ではありません」
「はい」
「組織としての継続性と、復帰後の負荷を慎重に見極めたいという意図です」
「…」
「代行の方が了承すれば、GM職に戻ることは可能です」
絵里奈は、ほんの一瞬だけ視線を落とした。
だがすぐに顔を上げ、静かに言葉を紡ぐ。
「わかりました。会社の判断にも従います。必要なら、段階的な復帰でも構いません」
産業医はその答えに満足したように微笑んだ。
「その姿勢があれば大丈夫です。では、復帰プランを会社側と調整し、正式な通知をお待ちください」
面談室の空気が、ようやく少しだけ緩んだ。
絵里奈は深く息を吐き、胸の奥に灯った小さな決意を確かめるように立ち上がった。
----
応接室に戻った絵里奈は、優子と篠崎と向かい合った。
「GM代行って、片桐さんのこと?」
そう尋ねると、優子は小さく頷いた。
「うん。でも実際は支店長がほとんど仕切ってるから、自分は何もしてないって本人が言ってたよ」
「でしょうね」
北関東エリアの二店舗の支店長は、絵里奈が手塩にかけて育てた存在だ。
二人とも、それぞれの職務を完璧に全うしている。
「でも、本当に、大丈夫なんですか?」
篠崎は、やはり心配そうだった。
「大丈夫よ。…ただ」
「ただ…?」
「これまでと同じかって言われれば、違うと言わざるを得ないけどね」
正直な答えだった。
田崎の件が影響しているのではなく、自分自身の意識が変わってきているのだ。
年齢的なものもあるのかもしれない。
私がなんとかしなければ、という思いが、薄れてきてはいる。
「そう、ですよね…」
「まあ、それでも、実際に支店に戻って仕事をすれば、気持ちも変わるかもしれないし」
スマホが鳴る。
伊織からの通話だった。
「もしもし?伊織?」
「あ、絵里奈?外に多分、マスコミ関係者が来ていると思う」
「え?マスコミ?」
「多分。カメラとか、あるし…」
絵里奈は、優子と篠崎を見た。二人とも、言葉を失っている。
「……どうする?」
優子が低く問う。
声は落ち着いているのに、目だけが鋭く周囲を探っていた。
「裏口から出る?」
篠崎が言うが、その声音には迷いがあった。
裏口は確かに人目につきにくい。だが、そこに誰もいない保証はない。
「伊織、どこにいるの?」
絵里奈は通話に戻った。
「正面玄関の少し先。車の中」
「分かった。ちょっと待ってて、裏口行くかもしれない」
通話を切ると、応接室に重い沈黙が落ちた。
「なんで今日来てるって分かったんでしょうね」
篠崎が呟く。
「分からない。でも、誰かが漏らしたと考えるのが自然よね」
優子の声は冷静だったが、その奥に怒りが潜んでいた。
絵里奈は、胸の奥がざわつくのを感じた。
今日の来社は、産業医と人事のごく一部しか知らないはずだった。
それなのに、外にマスコミがいる。偶然とは思えない。
「……裏口、使う?」
優子がもう一度尋ねる。
絵里奈は少し考えた。
裏口を使えば、確かに正面のマスコミは避けられる。
だが、裏口に誰かが張っていないとも限らない。
「裏口のカメラ、警備に確認してもらえますか?」
篠崎が提案した。
「そうね。まずは状況を把握しましょう」
優子が頷き、スマホを取り出す。
優子が警備に連絡を取ろうとしたそのとき、絵里奈のスマホが震えた。
再び伊織からの着信。
「……伊織?」
「裏口じゃなくて、正面から出てきていいよ」
あまりに落ち着いた声に、絵里奈は思わず言葉を失った。
「正面?でも、マスコミがいるって言ってなかった?」
「逃げる道理は無いから」
通話を切ると、優子と篠崎が同時に絵里奈を見る。
「正面から?」
篠崎の眉がわずかに寄る。
「旦那さんが、そう言ってるの?」
優子の声は低いが、どこか信頼の色が混じっていた。
絵里奈は小さく頷いた。
「逃げる道理は無いからって…」
優子はしばらく考え、深く息を吐いた。
篠崎は、伊織らしいと思ったが、危険な気もする。
「分かった。行きましょう。変に隠れるほうが、逆に目立つこともある」
篠崎はまだ納得しきれない表情だったが、最終的には頷いた。
「俺も一緒に行きます。前を歩きますから」
三人は応接室を出た。
廊下の空気が、いつもより冷たく感じる。
エレベーターの扉が閉まった。
正面玄関に近づくにつれ、外のざわめきが微かに聞こえてくる。
カメラのシャッター音、誰かの話し声、車のアイドリング。
エントランスのガラス越しに、数人の記者らしき影が見えた。
だが、その手前に、マイバッハがゆっくりと歩道側に寄せて停まった。
運転席から降りてきたのは、伊織だった。
彼は記者たちの視線を一身に受けながら、まるで何事もないかのように歩いてくる。
その姿は、妙に堂々としていて、静かに周囲を圧していた。
もう伊織の顔を知らない記者などいない。
だが、誰も何も質問していないようだ。
まるで孤高の狼を遠巻きに見ている小動物のようだった。
絵里奈の胸が、少しだけ軽くなる。
「行こう」
優子が小さく呟いた。
三人は、正面玄関へと歩き出した。
正面玄関の自動ドアが開いた瞬間、外の空気が一気に流れ込んだ。
記者たちのざわめきが、波のように押し寄せてくる。
その手前で、伊織が一歩、前に出た。
肩幅は広くないのに、不思議と、壁のように見えた。
「絵里奈、こっち」
声は低く、落ち着いていて、揺れがない。
その一言だけで、周囲の喧騒が遠のいた気がした。
記者たちがこちらに気づき、ざっと動く。
カメラが一斉に向けられ、シャッター音が重なる。
だが、伊織は一切動じなかった。
自然な動作で絵里奈の前に立ち、絵里奈と手をつないだ。
記者の一人が質問を投げかけようと口を開いたが、伊織は視線だけでそれを制した。
道を開けろ、と言わなくても、記者達はマイバッハまでの動線を開けた。
伊織は歩幅を変えず、一定のリズムで進む。
車の前に着くと、いつものように後部座席のドアを開ける。
絵里奈が乗り込むと、伊織はドアを閉め、最後にもう一度だけ記者たちを見渡した。
一礼をすると、運転席に戻り、何事もなかったかのように車を発進させた。




