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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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78/107

78.「逃げる道理は無い」――正面玄関から踏み出した銀狼の守護。記者を圧した“繋がれた手”と、再起への第一歩。

面談室の中は、外の喧騒から切り離されたように静かだった。

産業医は資料を閉じ、穏やかな声で切り出す。


「では、水原さん。まずは現在の体調と、復帰にあたってのご希望を伺えますか」


絵里奈は背筋を伸ばし、膝の上で指を軽く組んだ。

一瞬だけ迷うように視線が揺れたが、すぐにまっすぐ産業医を見た。


「今まで通りの業務に戻るつもりです」


その言葉は、強がりではなく、覚悟の重さを含んでいた。

産業医は表情を変えず、しかし注意深く頷く。


「今まで通りというのは、現在のポジションとしての通常業務、という理解でよろしいですか」

「はい。体調も安定していますし、業務内容にも問題はありません」


産業医はメモを取りながら、慎重に言葉を選ぶ。


「気持ちとしては理解できます。ただ、復帰直後は負荷が読みにくい時期でもあります。無理をして再発するケースも少なくありません。会社としても、段階的な復帰を提案する可能性がありますが、その点についてはどうお考えですか」


絵里奈は少しだけ息を吸い、静かに答えた。


「段階的な復帰が必要なら、もちろん従います」


産業医はしばらく沈黙し、彼女の表情を確かめるように見つめた。


「わかりました。では、医学的な観点から見た“可能な範囲”と、会社側の受け入れ体制をすり合わせていきましょう」

面談は淡々と続いていく。

しかし、絵里奈の胸の奥では、ようやく一歩を踏み出した実感が静かに灯っていた。


産業医は資料を閉じ、少し姿勢を正した。

ここからが本題だと言わんばかりの空気が流れる。


「水原さん。医学的には復帰可能と判断できます」

「はい」

「ただし、会社側から、ひとつ条件が提示されています」


絵里奈はまぶたをわずかに動かし、静かに聞き返す。


「条件ですか?」

「はい。ご存じの通り、現在GM職は代行の方が務めています。その方が業務を継続するか、あるいは水原さんに職務を戻すか」

「…」

「最終判断は、会社とその代行者の合意による、という形になります」


一瞬、空気が止まったように感じられた。

絵里奈は表情を崩さず、しかし胸の奥に小さな痛みが走る。


「つまり、私が戻りたいと言っても、すぐにGMに復帰できるわけではない、ということですね」

産業医は頷く。

「ええ。ただし、これは“あなたを疑っている”という意味ではありません」

「はい」

「組織としての継続性と、復帰後の負荷を慎重に見極めたいという意図です」

「…」

「代行の方が了承すれば、GM職に戻ることは可能です」


絵里奈は、ほんの一瞬だけ視線を落とした。

だがすぐに顔を上げ、静かに言葉を紡ぐ。


「わかりました。会社の判断にも従います。必要なら、段階的な復帰でも構いません」


産業医はその答えに満足したように微笑んだ。


「その姿勢があれば大丈夫です。では、復帰プランを会社側と調整し、正式な通知をお待ちください」


面談室の空気が、ようやく少しだけ緩んだ。

絵里奈は深く息を吐き、胸の奥に灯った小さな決意を確かめるように立ち上がった。


----


応接室に戻った絵里奈は、優子と篠崎と向かい合った。


「GM代行って、片桐さんのこと?」


そう尋ねると、優子は小さく頷いた。


「うん。でも実際は支店長がほとんど仕切ってるから、自分は何もしてないって本人が言ってたよ」

「でしょうね」


北関東エリアの二店舗の支店長は、絵里奈が手塩にかけて育てた存在だ。

二人とも、それぞれの職務を完璧に全うしている。


「でも、本当に、大丈夫なんですか?」


篠崎は、やはり心配そうだった。


「大丈夫よ。…ただ」

「ただ…?」

「これまでと同じかって言われれば、違うと言わざるを得ないけどね」


正直な答えだった。

田崎の件が影響しているのではなく、自分自身の意識が変わってきているのだ。

年齢的なものもあるのかもしれない。

私がなんとかしなければ、という思いが、薄れてきてはいる。


「そう、ですよね…」

「まあ、それでも、実際に支店に戻って仕事をすれば、気持ちも変わるかもしれないし」


スマホが鳴る。

伊織からの通話だった。


「もしもし?伊織?」

「あ、絵里奈?外に多分、マスコミ関係者が来ていると思う」

「え?マスコミ?」

「多分。カメラとか、あるし…」


絵里奈は、優子と篠崎を見た。二人とも、言葉を失っている。


「……どうする?」


優子が低く問う。

声は落ち着いているのに、目だけが鋭く周囲を探っていた。


「裏口から出る?」


篠崎が言うが、その声音には迷いがあった。

裏口は確かに人目につきにくい。だが、そこに誰もいない保証はない。


「伊織、どこにいるの?」


絵里奈は通話に戻った。


「正面玄関の少し先。車の中」

「分かった。ちょっと待ってて、裏口行くかもしれない」


通話を切ると、応接室に重い沈黙が落ちた。


「なんで今日来てるって分かったんでしょうね」


篠崎が呟く。


「分からない。でも、誰かが漏らしたと考えるのが自然よね」


優子の声は冷静だったが、その奥に怒りが潜んでいた。

絵里奈は、胸の奥がざわつくのを感じた。

今日の来社は、産業医と人事のごく一部しか知らないはずだった。

それなのに、外にマスコミがいる。偶然とは思えない。


「……裏口、使う?」


優子がもう一度尋ねる。

絵里奈は少し考えた。

裏口を使えば、確かに正面のマスコミは避けられる。

だが、裏口に誰かが張っていないとも限らない。


「裏口のカメラ、警備に確認してもらえますか?」


篠崎が提案した。


「そうね。まずは状況を把握しましょう」


優子が頷き、スマホを取り出す。


優子が警備に連絡を取ろうとしたそのとき、絵里奈のスマホが震えた。

再び伊織からの着信。


「……伊織?」

「裏口じゃなくて、正面から出てきていいよ」


あまりに落ち着いた声に、絵里奈は思わず言葉を失った。


「正面?でも、マスコミがいるって言ってなかった?」

「逃げる道理は無いから」


通話を切ると、優子と篠崎が同時に絵里奈を見る。


「正面から?」


篠崎の眉がわずかに寄る。


「旦那さんが、そう言ってるの?」


優子の声は低いが、どこか信頼の色が混じっていた。


絵里奈は小さく頷いた。


「逃げる道理は無いからって…」


優子はしばらく考え、深く息を吐いた。

篠崎は、伊織らしいと思ったが、危険な気もする。


「分かった。行きましょう。変に隠れるほうが、逆に目立つこともある」


篠崎はまだ納得しきれない表情だったが、最終的には頷いた。


「俺も一緒に行きます。前を歩きますから」


三人は応接室を出た。

廊下の空気が、いつもより冷たく感じる。

エレベーターの扉が閉まった。


正面玄関に近づくにつれ、外のざわめきが微かに聞こえてくる。

カメラのシャッター音、誰かの話し声、車のアイドリング。

エントランスのガラス越しに、数人の記者らしき影が見えた。


だが、その手前に、マイバッハがゆっくりと歩道側に寄せて停まった。

運転席から降りてきたのは、伊織だった。


彼は記者たちの視線を一身に受けながら、まるで何事もないかのように歩いてくる。

その姿は、妙に堂々としていて、静かに周囲を圧していた。

もう伊織の顔を知らない記者などいない。

だが、誰も何も質問していないようだ。

まるで孤高の狼を遠巻きに見ている小動物のようだった。


絵里奈の胸が、少しだけ軽くなる。


「行こう」

優子が小さく呟いた。

三人は、正面玄関へと歩き出した。


正面玄関の自動ドアが開いた瞬間、外の空気が一気に流れ込んだ。

記者たちのざわめきが、波のように押し寄せてくる。


その手前で、伊織が一歩、前に出た。

肩幅は広くないのに、不思議と、壁のように見えた。


「絵里奈、こっち」

声は低く、落ち着いていて、揺れがない。


その一言だけで、周囲の喧騒が遠のいた気がした。

記者たちがこちらに気づき、ざっと動く。

カメラが一斉に向けられ、シャッター音が重なる。


だが、伊織は一切動じなかった。

自然な動作で絵里奈の前に立ち、絵里奈と手をつないだ。


記者の一人が質問を投げかけようと口を開いたが、伊織は視線だけでそれを制した。

道を開けろ、と言わなくても、記者達はマイバッハまでの動線を開けた。

伊織は歩幅を変えず、一定のリズムで進む。

車の前に着くと、いつものように後部座席のドアを開ける。

絵里奈が乗り込むと、伊織はドアを閉め、最後にもう一度だけ記者たちを見渡した。

一礼をすると、運転席に戻り、何事もなかったかのように車を発進させた。


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