77.「誰があんなことを……」――匿名掲示板に蠢く悪意と、銀狼に守られし“氷の薔薇”の本社帰還。
会見が終わり、控室に戻った瞬間だった。
広報部長の佐伯が、資料を抱えたまま駆け寄ってきた。
その顔は、会見前よりもさらに険しい。
「篠崎部長……まずいことになりました」
「何があったんですか」
佐伯は無言でタブレットを差し出す。
画面には、社内SNSの匿名掲示板が映っていた。
> 《被害者は会社から金をもらって黙らされたらしい》
> 《夫はそれを聞いて、代わりに弁護士立てて訴えたって話だ》
> 《内部統制部が隠蔽していたって噂》
> 《田崎だけじゃない。まだいるって話もある》
篠崎は、喉の奥が冷たくなるのを感じた。
「……誰がこんなことを」
「分かりません。ただ、放置すれば火がつきます。
特に、まだいる、いう書き込みは、外部に漏れれば大問題です」
篠崎は眉間を押さえ、深く息を吐いた。
会見で誤魔化さずに答えたことで、少しは前に進めたと思った矢先だった。
「中村部長には?」
「すでに共有しました。人事としても動くと言っています」
「分かりました。私もすぐに対応します」
タブレットを返し、篠崎は控室を出た。
廊下を歩きながら、胸の奥に重いものが沈んでいく。
応接室の前まで来たところで、扉が開いた。
優子が出てきた。
その表情は、怒りと焦りを必死に抑え込んでいるようだった。
「海斗、見た?」
「社内SNSですか?」
「誰があんなことを…」
「すぐに対処します」
優子は小さく頷き、声を潜めた。
「絵里奈の復帰、来週に決まりそうなの。産業医面談で、一度、こっちに来る」
「水原さんが?」
「他に絵里奈を狙っている奴が本当にいるなら、絶対になんとかしないと」
全く可能性が無いとは、言い切れない。
模倣犯、愉快犯など、こういうことが起きると、噂だけで実際に動いてしまう輩も発生しうるのだ。
「優子さん、俺が必ずなんとかします」
優子はわずかに微笑み、歩き去った。
優子は、その後すぐにメールを全社に出した。
件名:【重要】社内SNSにおける不正確な情報の投稿について
各位
本日、社内SNSの匿名掲示板において、
事実関係が確認されていない情報や、特定の社員に関する憶測が
複数投稿されていることを確認しました。
これらの投稿は、当社の就業規則および社内SNS利用規程に
抵触する可能性があり、また、社員の名誉や安全を損なう
重大な問題となり得ます。
現在、関係部署にて事実確認およびログ調査を進めております。
調査が完了するまでの間、以下の点についてご協力をお願いします。
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■お願いしたいこと
・事実が確認されていない情報の投稿・拡散を控えてください
・憶測に基づく書き込み、特定個人への言及は禁止されています
・不審な投稿を見かけた場合は、人事部または内部統制部までご連絡ください
------------------------------------------------------------
なお、調査の妨げとなる行為や、虚偽情報の流布が確認された場合、
規程に基づき厳正に対処いたします。
社員の皆さまが安心して働ける環境を守るため、
ご理解とご協力をお願いいたします。
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さらに続けて、篠崎がメールを出す。
件名:【通知】社内SNSに関する調査状況について
各位
現在進行中の社内SNSにおける不適切投稿の調査について、
投稿が行われた端末およびアクセス状況の一部が特定されました。
引き続き、関係部署と連携し、詳細な調査を進めております。
調査内容に関するお問い合わせにはお答えできませんが、
必要な情報は適宜、関係者へ共有いたします。
本件に関する憶測や推測の投稿・会話は、
調査の妨げとなるため厳にお控えください。
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本社エントランス前。
篠崎は、優子と並んで立っていた。時刻は午前十時。
今日は、絵里奈が職場復帰に向けて、本社で産業医との面談を受ける日だ。
静かにマイバッハがエントランス前へ滑り込む。
運転席から降りてきた伊織が、周囲に警戒をしながら、二人に気づくと、軽く会釈する。
笑顔は無かった。
その姿は、まさに絵里奈を守ろうとする獰猛な狼にも見えた。
後部座席のドアを開けた。
その所作はしかし、いつも通り、自然なエスコートの動きだった。
そして、絵里奈が姿を現す。
彼女は通常の出勤用スーツに身を包み、凛とした空気をまとっていた。
「久しぶりね」
絵里奈が二人に声をかける。
篠崎は、すでに泣きそうだった。
伊織は、運転席に戻る。
「旦那さんは?」
優子が、絵里奈に聞く。
「駐車場で待ってるって」
絵里奈が答える。
「じゃあ、行きましょうか」
三人はエントランスを抜け、応接フロアへ向かった。
総務の担当者がすでに待機しており、軽く会釈をして案内する。
産業医面談室の前に着くと、絵里奈は一度だけ深呼吸をした。
「大丈夫?」
優子が小声で尋ねる。
「うん」
絵里奈は、かすかに笑ってみせた。
ドアがノックされ、産業医が顔を出す。
白衣ではなく、落ち着いた色のスーツ姿。
企業の“医師”というより、調停者のような雰囲気をまとっていた。
「水原さんですね。どうぞ、お入りください」
絵里奈は一歩踏み出し、振り返って二人に軽く会釈した。
「行ってくるね」
ドアが閉まる。
静かな応接フロアに、わずかな緊張だけが残った。




