75.「これは、治療中なの」――後遺症という名の渇望。伊織に溺れる絵里奈と、広すぎる“母の家”への訪問。
ケガが完治した事を会社に報告したが、片桐からは、後遺症が心配なので、あと一ヶ月くらいは様子を見るようにと、電話で言われた。
それから一週間は経過しているが、絵里奈自身はいわゆるPTSDに該当するような自覚症状は今のところ無かった。
ただ、身体が疼くようになった。
怪我が完治してからだった。
毎日、伊織を求めてしまう。
伊織の仕事に差し支え無いように、とは考えていたのだが、どうにもならないくらいに、欲求がわき出してくる。
それがある意味で、後遺症なのかもしれなかった。
何かを感じているのか、伊織も求めに応じて、ずっと絵里奈を抱き続けている。
二人とも仕事をそっちのけで、毎日交わり続けている状態だ。
皆に申し訳無いと思うが、これが後遺症なのだ、とすれば、ある意味では、治療中なのである。
絵里奈は開き直って、伊織との日々を過ごしている。
伊織が自分の代理人として、会社と共に損害賠償請求を起こした。
普段、絶対に表に出ない伊織が、記者会見まで開いて、今回の事件に対する責任を求めた。
そうする事で、色々なものを守ろうとしているのは分かった。
前日まで、記者会見で喋る練習をしていたのが、ついこの間までの事だった。
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「今日は、何処か行く?」
寝室のベッドで、伊織が聞いてくる。
時間は既に、昼手前だった。
今日も、朝からずっと抱き合っていた。
最近は、ずっとこういう感じなので、なんとなく肌の潤いが違う気がする。
元々スキンケアは、離婚してから現在に至るまで怠った事は無かった。
「海行こうよ」
「あ、そうか、連れて行くと言ってたよね」
「忘れてた?」
「いや、そんな事無い」
絵里奈は起き上がり、着る毛布を羽織って、ベッドから抜け出した。
この着る毛布が、最近のお気に入りである。
肌触りがとてもよく、保温性に優れているため、素肌に直に着用している。
羽織ってから、袖に腕を通す。
ボタンが前についており、ボタンを止めれば、一応身体は隠れる。
「実家にも顔出さないとなあ」
伊織が、ベッドから降りて、下着を着用しながら、言う。
「時間がある内に行こうよ」
絵里奈が答えると、伊織は頷いた。
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伊織の母親が新しく買った家は、絵里奈の実家からも、さほど遠くなかった。
伊織自身も行くのは初めてだった。
ナビで指定していた場所に着くと、そこは庭付きで、2階建ての一軒家だった。
駐車場は、ゆうに五台分はあるだろう。
そこの一角に、軽自動車がぽつんと一台駐車してある。
一人で住むのに、何故一軒家で、こんなに広いのだろう、と伊織は思った。
玄関のインターホンを押すと、白髪混じりの母が出てきた。
「あら、来たのね」
「こんにちは〜」
絵里奈のほうが先に挨拶をする。
伊織は黙ったままだ。
合計でいくらしたかは分からないが、一括で払えるくらいの金は渡していたはずだった。
「ありがとね〜、おかげで家買えたわ」
「全て主人からのなんで」
「あら、そうなの?そうよね」
やりとりが面倒になってきたが、絵里奈は平気そうだった。
玄関に足を踏み入れる。
明らかに、一人分以上を想定して整えられた空間だ。
「広い、ですね」
絵里奈が言うと、伊織が口をはさむ。
「物が捨てられないんだ、昔からの物をずっと持ってる」
伊織の母が言う。
「いいじゃない、別に、全部持っていたって」
伊織は、昔はここでいつも喧嘩になっていた。捨てろと言っていたはずだ。
「まあ、片付けるのは俺じゃないし」
そういうと、奥のリビングへと入る。
絵里奈があとからついてくる。
「ここ、日当たりいいでしょう」
母の声に、絵里奈が頷いた。
「はい。洗濯物もすぐ乾きそうですね」
無難な返し。
「この辺りね、あなたのご実家も近いって聞いて」
母は何気ない調子で言った。
「近いですね」
「何かあったときも、助け合えるでしょう?」
絵里奈は微笑んだまま、視線だけを部屋に走らせる。
今は、荷物で溢れているが、片付けた場合のスペース、余分な部屋数、収納数。
この家は、ひょっとして…
そう直感した。
伊織が口を挟もうとする気配を感じて、絵里奈は一歩だけ前に出た。
それは庇うというより、間に入る動作だった。
「落ち着いた場所で、いいですね」
言葉を置いて、会話を先に進める。
母は満足そうに笑った。
お茶を飲み終える頃には、話題は天気や近所の店のことに移っていた。
母は終始穏やかで、特別な言葉も、踏み込んだ提案も口にしなかった。
「また来てね」
玄関でそう言われ、絵里奈は笑顔で頭を下げる。
「今日はありがとうございました」
伊織も短く会釈し、二人は家を出た。
マイバッハに乗り込む。
エンジンがかかり、住宅街をゆっくりと走り出す。
「全く…相変わらずだな…」
伊織が、感想のように言う。
「どうしたの?」
「あの荷物、俺が小さい頃からの物もあるんだ」
「そんなに前の物もあるんだ…」
「ああ…もう、どうでもいいけど、あれを置くためだけに広い家を買ったんだよな、きっと」
絵里奈は頷く。
それ自体は、間違っていない。
少し走ってから、絵里奈は前を見たまま口を開いた。
「ね、伊織」
声は、いつもと変わらない。
「ん?」
「お義母さんの家、老後の家だと思う?」
伊織は少し考える。
「そうじゃないのか?」
と返す。
「老後にしては、広すぎる」
断定ではなく、確認のような言い方だった。
「部屋の数も、収納も」
絵里奈は続ける。
「一人で暮らす前提じゃないと思った」
伊織は、しばらくしてから言った。
「そこは、俺、あんまり考えてなかった」
「善意だとは思うけど」
絵里奈は、そこで一度区切る。
「多分、最期は一緒に住みたいと思ってる」
「俺は嫌だな」
伊織は、はっきりと言った。
「ずいぶん、はっきりしてるのね」
「前の妻の時から、俺に会えば、恨みつらみしか言わなかった」
「…そう、言ってたね、伊織」
「金を渡した途端に、これだ。絵里奈の事も否定しない」
前の時はどうだったのかは、絵里奈には想像がつかなかった。
「でも、もう、そういう事を考えるのもやめた」
「そうなんだ」
「後は、きっと好き勝手に過ごしていくさ」
車は、そのまま家路を進んでいった。




