74.「今度は私が、妻を救う番です」――銀狼・水原伊織の宣戦布告。一生消えない“罪の代償”と、ソファで重ねた癒しの熱。
グローバルリンクジャパン株式会社始まって以来の重大事件だった。
殺人未遂、強制性交等未遂、傷害、強制わいせつ、脅迫など長期の実刑判決が避けられないレベルの重大犯罪である。
水原絵里奈本人からの申し出は無かったが、会社としては、田崎の刑事判決が確定した後で損害賠償の訴訟を起こす。
今後のマスコミ対応による費用、企業イメージ毀損による損害などもろもろ含めると、数千万になるだろう。
とても田崎個人で賠償できる額ではないが、重大犯罪に対して、会社として毅然とした対応を取る。
マスコミには社長と専務が表に立ち、それらを以て、再発防止対策とすると告げた。
暴力犯罪による損害賠償は、自己破産しても消えない。
つまり、重大犯罪の代償として、田崎は一生、賠償義務を背負う。
損害賠償の時効は10年となっているが、支払督促を定期的に行うことにより、時効は延々と更新されつづける。
生きている限り、罪は消えない。
その事実に田崎が気づくのは、刑事裁判で、実刑判決を受けた後だった。
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会見場に入った瞬間、無数のフラッシュが一斉に焚かれた。
壇上には、グローバルリンクジャパン株式会社の社長・三枝と、専務の木崎が並んで立っていた。
背後のパネルには、会社のロゴと「記者会見」の文字が淡々と掲げられている。
三枝は深く一礼し、マイクの前に立った。
「本日は、お忙しい中お集まりいただき、誠にありがとうございます。
弊社社員による重大な犯罪行為につきまして、まずは被害に遭われた水原絵里奈さん、そしてご家族の皆さまに、心よりお詫び申し上げます」
会場が静まり返る。
記者たちの視線が、三枝の一挙手一投足に集中していた。
「今回の事件は、弊社創業以来、例を見ない重大なものです。刑事裁判の結果を踏まえ、弊社としては加害者である田崎に対し、損害賠償請求を行う方針です。
企業としての社会的責任を果たすためにも、毅然とした対応が必要であると判断いたしました」
木崎が横で静かに頷く。
記者席から手が上がった。
「御社の管理体制に問題があったのではないですか」
三枝は一瞬だけ目を閉じ、すぐに記者を見据えた。
「ご指摘の通り、弊社の内部統制に不備があったことは否定できません。その点につきましては、徹底した検証を行い、再発防止策を講じてまいります。具体的には、社員のメンタルケア体制の強化、内部通報制度の見直し、そして管理職への研修を義務化いたします」
別の記者が続けた。
「被害者の水原さんの職場復帰については?」
木崎がマイクを引き寄せた。
「水原さんの心身の状況を最優先に考え、会社として全面的にサポートいたします。復帰の時期については、医師の判断とご本人の意思を尊重し、慎重に対応いたします」
記者たちの手が次々と上がる。
フラッシュがまた光る。
三枝は、最後にもう一度深く頭を下げた。
「今回の事件を、決して風化させません。被害者の尊厳を守り、社員が安心して働ける環境を取り戻すために、全力で取り組んでまいります」
会場に、静かな緊張が流れた。
その空気の中で、田崎が背負うことになった“罪の重さ”が、改めて浮き彫りになっていくようだった。
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そして数日後。
その会見場は、会社の会見とは違い、こぢんまりとしていた。
だが、集まった記者の数、マスメディアの数は多かった。
狭い会場にひしめきあっている。
被害者側が会見を開く、しかも超有名作家の水原伊織本人というだけで、空気は一気に張り詰める。
壇上に立ったのは、水原伊織。
黒いスーツに身を包み、表情は硬い。
その隣には、大手出版社お抱えの弁護士が控えている。
伊織は、深く一礼した。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。
私は、今回の事件の被害者である水原絵里奈の夫、水原伊織です。
本日は、代理人として、損害賠償請求を起こしたことをご報告いたします」
会場が静まり返る。
「妻は、今回の事件により、心身ともに深刻な被害を受けました。
命を奪われかけ、尊厳を踏みにじられ、今もなお、日常生活に支障をきたしています。
私たち家族にとって、この事件は終わっていません。これからも続いていくものです」
伊織の声は震えていない。
怒りを押し殺した、静かな声だった。
記者の一人が手を挙げた。
「損害賠償の金額については?」
伊織は一瞬だけ目を閉じ、答えた。
「金額の問題ではありません。ただ、加害者が犯した行為の重大さに見合う責任を、法の下で明確にする必要があると考えています」
別の記者が続ける。
「加害者の田崎氏は、支払い能力がないと見られていますが?」
伊織は、淡々と答えた。
「支払えるかどうかは問題ではありません。
重大犯罪の代償から逃れることはできない。
それを、法的に明確にするための訴訟です。彼が生きている限り、責任は消えません」
会場にざわめきが走る。
生きている限り、罪は消えない。
まるで、以前の自分のようだ、と伊織は思った。
伊織は続けた。
「直木賞を受賞したときも言いましたが、今の妻に再会しなければ、私は今ここにはいません。私を救ってくれた妻は、今も恐怖と戦っています。
夜眠れず、外に出ることもできない日があります。それでも、前を向こうとしている」
「今度は私が妻を救う番です。私は夫として、そして家族として、彼女の尊厳を守るために、できることをすべて行います」
最後に、深く頭を下げた。
「どうか、この事件を風化させないでください。同じような被害が二度と起きないように。
そして、被害者が声を上げられる社会であるように。そのための一歩として、今回の訴訟を起こしました」
フラッシュが一斉に光る。
その光の中は、ただ、うざったく感じた。
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記者会見から、さらに数日が過ぎた。
出版社や公式サイトには、読者からの応援コメントや手紙が途切れることなく届き続けていた。
その勢いは、編集部が驚くほどだった。
「伊織さん、めっちゃ男前」
「矢面に立って戦う。男の中の男」
「どうか絵里奈さんを支えてあげてください」
「あなたの作品に救われた人間がここにいます」
そんな言葉が、毎日のように積み重なっていく。
それに呼応するように、書籍の販売部数は急激に伸び、連載中の三作目を掲載している文芸誌まで、各書店で売り切れが相次いだ。
重版が決まるたびに、担当編集者から連絡が入り、「前代未聞です」と興奮気味に告げられる。
テレビのワイドショーでは、連日この事件が取り上げられ、コメンテーターや司会者が熱を帯びた議論を繰り広げていた。
「被害者の勇気ある行動を支持します」
「企業の対応はどうあるべきか」
「社会全体で再発防止を考えるべきだ」
そんな言葉が、画面の向こうで飛び交っている。
事件は、もはや一個人の悲劇ではなく、社会全体が向き合うべき問題として扱われ始めていた。
そのワイドショーを、伊織は絵里奈とふたり、リビングのソファで並んで観ていた。
画面の中では、コメンテーターたちが事件について熱を帯びた議論を続けている。
「すごいことになったね…」
絵里奈は、コーヒーカップを両手で包みながら、ぽつりとつぶやいた。
その横顔は、思ったよりも落ち着いて見えた。
伊織は、彼女の精神面の後遺症をずっと案じていた。
ケガはもう完治している。だが、心の傷は目に見えない。
夜眠れなくなるのではないか、外に出られなくなるのではないか。
そんな不安が、ずっと胸の奥にあった。
しかし、本人は意外なほど平気そうだった。
「一度でも反撃できたのが効いてるのかも」と笑って言ったとき、伊織は少しだけ肩の力が抜けた。
一人で歩けない、ということもなかった。
むしろ、以前よりも強くなったようにさえ見える瞬間がある。
だが、だからといって、この出来事を許すことなどできなかった。
絵里奈本人の過去も、田崎の歪んだ執着も、会社の管理体制も、すべてが複雑に絡み合った事件だった。
だが、事実としてこれは「勤務時間中の会社関係者による重大犯罪」である。
田崎も、会社も、それぞれが負うべき責任を果たさなければならない。
伊織が表に立ち、名前を出したのはそのためだった。
夫として、家族として、守るべきものを守るために。
「伊織…本当に平気よ、私」
心配を隠しきれない眼差しを向けてくる伊織に、絵里奈は静かに微笑んだ。
「絵里奈…無理してないよな?」
「もちろん、怖くないわけじゃないけど…もう、あまり気にしてないの」
悲しそうな目で見つめてくる。
「そんな顔しないで。ね?」
そっと彼の手を包み込む。
「いつも貴方が、みんなが、守ってくれるって信じてるから」
「…そうだね」
「それよりも…ねえ…」
絵里奈は、朝からずっと着る毛布にくるまって過ごしていた。
下には、何も着けていない。
伊織の手をそっと伊織の手を引き寄せ、胸元へ導いた。
「え、ちょっと…」
「…しよ…」
次の瞬間、伊織は絵里奈を抱き寄せ、ふたりはソファに身を預けた。
こういう二人の時間を得られたことだけは良かった。
しばらくの間は、こうして触れ合っていたい。
絵里奈は、ただそれだけを願っていた。




