73.「伊織がいると、安心しすぎる」――膝から崩れ落ちた絵里奈。そして木崎は、社長室の扉を叩く。
夜中に、絵里奈と共に帰宅した。
張りつめていたものが切れたのだろう。
リビングに足を踏み入れた途端、絵里奈は膝から崩れ落ちた。
「絵里奈っ」
伊織は反射的に駆け寄り、倒れ込む身体を抱きとめる。
「ご、ごめん……ちょっと、めまいがして」
「横になろう」
迷いなく横抱きにし、ソファまで運ぶ。
そっと寝かせると、絵里奈は浅く息をつきながら、ソファの背に頭を預けた。
「……ごめんね。ちょっと立ちくらみしただけ」
伊織は彼女の額に手を当て、熱がないか確かめる。
「さすがに今日は…辛いはずだ」
「…帰ってきたら、急に力が抜けちゃって」
「ここなら大丈夫だよ。少し休んで」
絵里奈は目を閉じ、かすかに笑った。
「伊織がいると、安心しすぎるのかも」
「安心してくれるなら、いくらでもそばにいる」
その言葉に、絵里奈の指がそっと伊織の袖をつまんだ。
二日後には病院の予約が入っている。
すべて絵里奈の会社が手配したもので、今回の件は労災として扱われるらしい。
背中とわき腹を蹴られたと聞いたとき、伊織の胸は冷たくなった。
幸い、骨に異常はなく、軽い打撲で済んだという。
だが、唇の端の切り傷だけは、彼女が受けた衝撃を否応なく思い出させた。
笑おうとすると痛むらしい。
絵里奈はそのたびに小さく息を呑む。
伊織は、その仕草を見るたびに胸が締めつけられた。
「今日はもう、このまま一度寝よう」
「うん…」
伊織は、絵里奈をまた横抱きにして、寝室へ入っていった。
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翌日、本社の管理部門は騒然としていた。
優子の所属する人事部も例外ではなく、懲戒解雇となった田崎に対し、損害賠償請求を含む法的措置を取るべきかどうか、早急な検討を迫られていた。
訴訟に踏み切る場合、各メディアへの対応方針も整えなければならない。
しかし今回の事案は、社内で密かに処理できるような軽いものではない。
現役社員が管理職に対して起こした、明確な殺人未遂、その重さは、会社全体を揺るがすには十分だった。
被害者である絵里奈は、勤務時間中の出来事であることから、対応をすべて会社に一任すると申し出ている。
社長への報告を含め、木崎と片桐も緊急会議の中心で奔走していた。
「しっかし、経費の不正使用の処罰が“降格のみ”だったとはのう……」
木崎が報告書に目を走らせながら、低くつぶやいた。
会議室には、木崎、片桐、優子、篠崎、そして総務部の数名が揃っていた。
「申し訳ありません。すべて私のミスです」
優子が木崎に向かって頭を下げる。
「いえ。私が内部統制部門で引き受けると言ってしまったのが原因です」
篠崎も続けて、木崎に向き直った。
「あほ。そんなことより、社長になんて説明するんや」
木崎が苛立ちを隠さず言う。
「専務、正直に申し上げるしかありません」
隣に座っていた片桐が、静かに口をはさんだ。
「田崎を、なんで会社に置いておいたんや――そこを突かれるやろ」
木崎の言葉に、場の空気が一気に重くなる。
「更生させようと言うたのに、失敗したあげく逆恨み……」
「そこも含めて、正直にお伝えするしかないと思います」
片桐が落ち着いた声で返した。
「で、その後のマスコミ対応でも、同じ説明をするんか?」
会議室に、再び沈黙が落ちた。
「内部統制が機能していないのではありませんか?被害に遭われた社員は今どうしていますか?今後の再発防止対策はどのようにお考えでしょうか?云々かんぬん…」
木崎が、マスコミの声色をまねて言う。
「…想定される質問に対して、また、今後の再発防止対策を早急に練ります」
優子がそう言う。
「…まあ、ええわ、とりあえず社長室には今からワシ行ってくる」
「専務」
片桐が声をかける。
「…私も行きます」
「…せやな、あの社長にどやされるの久しぶりやから、道連れがおらんときっついわ」
木崎はそう言うと、席を立つ。
片桐も後に続いた。
「専務、今後の対策含めて、これからまた協議は続けます」
優子が言うと、木崎は手を振りながら会議室を出て行った。
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社長室へ向かう廊下で、木崎がぽつりとつぶやいた。
「薔薇の香りは、危険な香りやな……」
「……は?」
片桐が思わず首を傾げる。
「いや、なんでもない。行くで」
そう言って歩みを早め、社長室前の秘書に声をかけた。
「木崎や。社長おる?」
「はい、本日は中におります」
「アポ、頼むで」
「かしこまりました」
秘書が内線を取り、短くやり取りを済ませる。
「どうぞ、お入りください」
受話器を置いた秘書が、丁寧に二人へ向き直った。
「失礼します」
「失礼します」
木崎と片桐は、並んで社長室の扉をくぐった。




