71.「触るな、けだもの」――路地裏に潜む刃と、氷の薔薇の絶体絶命。駆けつけた篠崎と伊織の慟哭。
資料室の扉を押し開けた瞬間、篠崎は足を止めた。
静かすぎる。
いつもなら、紙をめくる音や、田崎の浅い呼吸が聞こえるはずだった。
だが、今日は何もない。
篠崎はゆっくりと部屋に入る。
蛍光灯の白い光が、整然と並んだ棚を照らしている。
その中で、ひとつだけ異様に空白の気配を放つ場所があった。
田崎の席だ。
資料の山は、朝置いたままの形で残っている。
ページは一枚も進んでいない。
椅子は、わずかに後ろへ引かれたまま。
まるで、急いで立ち上がったように。
「どこへ行った?」
昼休みならまだしも、今は業務時間中だ。
勝手に席を外す理由はない。
ましてや、今日の田崎には“逃げ道”などないはずだった。
スマホを取り出し、田崎の携帯に電話をかける。
…お客様のおかけになった電話、現在電源がはいっていないため…
「ちっ」
篠崎は舌打ちをした。
トイレかもしれない。
少し待ったが、やはり戻ってこない。
篠崎は資料室を見渡し、ゆっくりと歩き出す。
机の上に置かれた時計が目に入った。
午後二時三十分。
妙な胸騒ぎがした。
そういえば、田崎が、今日に限って時計を気にしていたこと。
朝から妙に落ち着きがなかったこと。
そして、あの濁った目。
(まさか……)
篠崎は、資料室を飛び出した。
足音が廊下に響く。
スマホで、今度は水原に電話をかける。
…ツーツーツー…
話し中なのか、つながらない。
胸の奥に、冷たい焦りが走る。
(田崎……お前、どこいった)
廊下を早足で歩き始めた。
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本社ビルを出ると、午後の光が街路樹の影を長く伸ばしていた。
絵里奈は、駅へ向かって歩き出した。
大通りは人通りが多いが、途中に一本だけ、近道になる細い道がある。
昼下がりは、そこだけ妙に静かになるのだ。
今日も、自然とその道へ足が向いた。
ビルとビルの間を抜ける細い路地。
舗装はきれいだが、人影はほとんどない。
遠くで車の音がするだけで、ここだけ時間が止まったような静けさが漂っている。
絵里奈は歩きながら、ふと周囲に視線を流した。
特に変わったものはない。
ただ、いつもより風が冷たく感じる。
その時、スマホが鳴る。
優子からだった。
「もしもし、絵里奈?」
「優子、どうした?」
「もう戻るの?」
「うん、駅に向かっている」
「そっか、ちょっと話をしたかったけど」
「何?」
通話をしながらも、周囲に気を配る。
何か今日は、空気が、風の通りが悪い気がしていた。
(……気のせい?)
そう思いながらも、胸の奥に小さなざわめきが生まれる。
本社の廊下で感じた、あの針のような視線が、ふと蘇った。
路地の奥は、午後の光が届かず、薄い影が落ちている。
その影の中に、何かが動いたような気がした。
「でね…」
「そうなんだ」
絵里奈は通話しながらも、立ち止まらない。
ただ、ほんの一瞬だけ、視線を横へ滑らせる。
その背後で、影がわずかに揺れた。
(誰か、いる?)
風が吹き抜け、落ち葉がひとつ転がる。
それだけだ。
絵里奈は、深く息を吸い、歩みを続けた。
背筋は伸び、視線はまっすぐ前を向いている。
路地を抜ければ、駅前の人通りの多い通りに出る。
あと数十メートル。
「そうなんだね」
「そうそう…でね」
通話は続いている。
絵里奈は、歩みを少しだけ速めた。
次の瞬間、背中に激痛が走った。
「うっ…」
たまらず、膝をついて、前のめりになり、持っていたスマホを地面に落とす。
顔をあげると、視界にナイフの刃がちらつく。
「俺だよ…」
絵里奈は、戦慄した。
「田崎…」
前のめりに倒れかかっている絵里奈の背中を踏みつけてくる。
二度、三度。
背中を踏まれ続ける。
呼吸が詰まる。
「げほっ、げほっ」
うつぶせになった絵里奈は、後ろ髪を掴まれ、顔を上に向けさせられる。
「誰かが来る前に、その面と身体を、ぎたぎたにしてやる…」
この時を狙っていたのだろう。
本社を出て、ひとりになる、この時を。
わき腹を蹴られた。
鈍い痛みにこらえきれず、もんどりうつように仰向けになる。
そこに、田崎が馬乗りになってくる。
平手打ちを喰らう。
「うう…」
「どうした、あの目で、にらんでみろよ…あの冷たい目でよお」
「こ、こんな、…ことして…」
「ああ?!」
唇を指で抓られる。
「お前のせいで、俺は俺は…俺はあああ!」
もう一度、平手打ちを喰らう。
背中の痛み、わき腹の痛みと恐怖で、身体が震えて動かない。
本当に殺されるかもしれない。
田崎が持つナイフが、妙に光って見えた。
「ふん、おとなしくなったか…どれ…」
田崎は、右手のナイフで、絵里奈のブラウスを首元から裂いていく。
ブラウスを一番下まで真っ二つしてから、拡げた。
黒のブラジャーと、白い肌が露わになる。
「殺しゃしねーよ…安心しろ…」
田崎が舌なめずりをして、顔を近づけてくる。
「…この、下衆」
絵里奈は、横を向いた。
横を向いた絵里奈の、髪の匂いを嗅いでくる。
「いいにおいだああ…へへ。これはいいにおいだ」
狂っている。
こんな男に、穢されてたまるか。
なんとかしないと。
伊織の顔が浮かぶ。
力が湧いてくる。
恐怖で震える身体を奮い立たせた。
田崎は、男の中では小柄な方で、痩せている。
筋力はそこまでは、無いはずだ。
絵里奈は、左手で田崎の顔を押さえて、右手で目をめがけて、拳を入れた。
「うがあ」
馬乗りになっている田崎の力が抜ける。
田崎の顔を下から掴んで、また目をめがけて拳をうちつける。
「ぐ、ぐお」
田崎は、もんどりうって、絵里奈から離れるようにして倒れた。
絵里奈は、身体を起こそうとしたが、全身がしびれているような感覚で思うように動かない。
ふと、落としたスマホが視界に入る。
うつぶせになり、ほふく前進で、スマホに手を伸ばす。
「こ、この…くそがああ」
田崎が起き上がってきて、また絵里奈の背中を踏みつけた。
呼吸ができなくなる。
「げほ、げほ…」
「もう許さねえ…やってやる、やってやる…」
田崎の手が、うつぶせに倒れている絵里奈の臀部に触れてくる。
絵里奈のスーツの腰ベルトに手をかけてきた。
「…それ、以上、触るな…けだもの…」
絵里奈は息も絶え絶え、声に出した。
道路の冷たさが肌を通して、ひんやり伝わってくる。
その時だった。
「田崎ぃ!!!」
篠崎が、奥から走ってくるのが見えた。
それから少し遅れて、優子の姿もあった。
篠崎は、田崎に勢いよく、体当たりをした。
田崎が転がるようにして地面に倒れる。
篠崎が、田崎を取り押さえていた。
「絵里奈っ!」
優子が、駆け寄り、絵里奈を抱き起こす。
「…優子…」
ほっとした瞬間に、痛みと震えがやってきた。
「すぐに、救急車を。あと警察」
優子達の後から駆けつけてきた社員達に、優子は指示を出していた。
視界が少しずつ霞んでくる。
痛みと震えは、収まらない。
「絵里奈…しっかりして、大丈夫?絵里奈?」
優子は、絵里奈のブラウスが裂かれている事に気づいたのか、自分の着ていたジャケットを、絵里奈の身体を隠すように掛けてきた。
「優子…ありがとう」
社員達は、多分優子の部下達だろう。
田崎を逃げられないように、押さえつけていた。
遠くから、救急車のサイレンの音が聴こえてきた。
ふっと、視界が白くなった。
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目を開く。
以前も似たような景色を見た気がする。
真っ白な天井。
薄暗い蛍光灯。
「気がついた?」
優子が見えた。
「ここは…」
「病院よ、会社指定の」
「病院…って、田崎は?!」
起き上がろうとしたが、全身に痛みが走った。
「はいはい、そのまま。もう大丈夫よ」
優子に身体を押さえられるようにして仰向けに戻る。
女物のトレーナーを着ていた。下は、パンツスーツのままだった。
「今、旦那さんこっちに向かってきてるから」
「伊織が?」
ふと、時計を見る。
一六時を少し過ぎたくらいだった。
「警察の人来ているけど、しゃべれる?」
優子が聞いてきた。
「うん、平気」
優子が立ち上がった。
奥から、警察官がやってきて自己紹介をした。女性の刑事だった。
三十分ほどで、事情聴取を終えると、刑事は退室していった。
「優子、ありがと、もう平気よ」
「平気って、顔見てごらんよ」
渡された鏡を覗くと、口の端に血の跡がある。
「まだ痛むでしょ?無理しないの」
上半身だけ起こしてみたが、若干の痛みはまだあるが、動けそうだ。
「この後、骨折とか無いか、検査してもらうから」
「労災?」
絵里奈が冗談交じりに言うと、優子も少しだけ苦笑いした。
「当然。まあ、背中の骨は折れてないとは思うけど…」
もう一度鏡を見る。
イヤリングは無事だった。
指輪も無事だった。触って確かめる。
「安心した」
「指輪より、自分の心配しないと…絵里奈」
ふと時間を見ると、17時を回っていた。
その時、医務室の扉が勢いよく開いた。
伊織が、顔面蒼白で入ってくる。
絵里奈の姿を捉えると、足早にこっちに向かってきた。
いきなり、ぎゅっと抱きしめられた。
少しだけ痛むが、それがかえって今は心地良かった。
「絵里奈…」
「伊織…」
伊織の背中に手を回した。
伊織は、何も言わなかった。
ただ、絵里奈の事を抱きしめていた。




