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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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71/107

71.「触るな、けだもの」――路地裏に潜む刃と、氷の薔薇の絶体絶命。駆けつけた篠崎と伊織の慟哭。

資料室の扉を押し開けた瞬間、篠崎は足を止めた。

静かすぎる。

いつもなら、紙をめくる音や、田崎の浅い呼吸が聞こえるはずだった。

だが、今日は何もない。


篠崎はゆっくりと部屋に入る。

蛍光灯の白い光が、整然と並んだ棚を照らしている。

その中で、ひとつだけ異様に空白の気配を放つ場所があった。


田崎の席だ。


資料の山は、朝置いたままの形で残っている。

ページは一枚も進んでいない。

椅子は、わずかに後ろへ引かれたまま。

まるで、急いで立ち上がったように。



「どこへ行った?」


昼休みならまだしも、今は業務時間中だ。

勝手に席を外す理由はない。

ましてや、今日の田崎には“逃げ道”などないはずだった。

スマホを取り出し、田崎の携帯に電話をかける。

…お客様のおかけになった電話、現在電源がはいっていないため…


「ちっ」


篠崎は舌打ちをした。

トイレかもしれない。

少し待ったが、やはり戻ってこない。


篠崎は資料室を見渡し、ゆっくりと歩き出す。

机の上に置かれた時計が目に入った。

午後二時三十分。


妙な胸騒ぎがした。


そういえば、田崎が、今日に限って時計を気にしていたこと。

朝から妙に落ち着きがなかったこと。

そして、あの濁った目。


(まさか……)


篠崎は、資料室を飛び出した。

足音が廊下に響く。

スマホで、今度は水原に電話をかける。

…ツーツーツー…

話し中なのか、つながらない。

胸の奥に、冷たい焦りが走る。


(田崎……お前、どこいった)


廊下を早足で歩き始めた。



----



本社ビルを出ると、午後の光が街路樹の影を長く伸ばしていた。

絵里奈は、駅へ向かって歩き出した。

大通りは人通りが多いが、途中に一本だけ、近道になる細い道がある。

昼下がりは、そこだけ妙に静かになるのだ。

今日も、自然とその道へ足が向いた。

ビルとビルの間を抜ける細い路地。

舗装はきれいだが、人影はほとんどない。

遠くで車の音がするだけで、ここだけ時間が止まったような静けさが漂っている。


絵里奈は歩きながら、ふと周囲に視線を流した。

特に変わったものはない。

ただ、いつもより風が冷たく感じる。

その時、スマホが鳴る。

優子からだった。


「もしもし、絵里奈?」

「優子、どうした?」

「もう戻るの?」

「うん、駅に向かっている」

「そっか、ちょっと話をしたかったけど」

「何?」


通話をしながらも、周囲に気を配る。

何か今日は、空気が、風の通りが悪い気がしていた。


(……気のせい?)


そう思いながらも、胸の奥に小さなざわめきが生まれる。

本社の廊下で感じた、あの針のような視線が、ふと蘇った。

路地の奥は、午後の光が届かず、薄い影が落ちている。

その影の中に、何かが動いたような気がした。


「でね…」

「そうなんだ」


絵里奈は通話しながらも、立ち止まらない。

ただ、ほんの一瞬だけ、視線を横へ滑らせる。

その背後で、影がわずかに揺れた。


(誰か、いる?)


風が吹き抜け、落ち葉がひとつ転がる。

それだけだ。

絵里奈は、深く息を吸い、歩みを続けた。

背筋は伸び、視線はまっすぐ前を向いている。

路地を抜ければ、駅前の人通りの多い通りに出る。

あと数十メートル。


「そうなんだね」

「そうそう…でね」


通話は続いている。

絵里奈は、歩みを少しだけ速めた。


次の瞬間、背中に激痛が走った。


「うっ…」


たまらず、膝をついて、前のめりになり、持っていたスマホを地面に落とす。

顔をあげると、視界にナイフの刃がちらつく。


「俺だよ…」


絵里奈は、戦慄した。


「田崎…」


前のめりに倒れかかっている絵里奈の背中を踏みつけてくる。

二度、三度。

背中を踏まれ続ける。

呼吸が詰まる。


「げほっ、げほっ」


うつぶせになった絵里奈は、後ろ髪を掴まれ、顔を上に向けさせられる。


「誰かが来る前に、その面と身体を、ぎたぎたにしてやる…」


この時を狙っていたのだろう。

本社を出て、ひとりになる、この時を。


わき腹を蹴られた。

鈍い痛みにこらえきれず、もんどりうつように仰向けになる。

そこに、田崎が馬乗りになってくる。

平手打ちを喰らう。


「うう…」

「どうした、あの目で、にらんでみろよ…あの冷たい目でよお」

「こ、こんな、…ことして…」

「ああ?!」


唇を指で抓られる。


「お前のせいで、俺は俺は…俺はあああ!」


もう一度、平手打ちを喰らう。

背中の痛み、わき腹の痛みと恐怖で、身体が震えて動かない。

本当に殺されるかもしれない。

田崎が持つナイフが、妙に光って見えた。


「ふん、おとなしくなったか…どれ…」


田崎は、右手のナイフで、絵里奈のブラウスを首元から裂いていく。

ブラウスを一番下まで真っ二つしてから、拡げた。

黒のブラジャーと、白い肌が露わになる。


「殺しゃしねーよ…安心しろ…」


田崎が舌なめずりをして、顔を近づけてくる。


「…この、下衆」


絵里奈は、横を向いた。

横を向いた絵里奈の、髪の匂いを嗅いでくる。


「いいにおいだああ…へへ。これはいいにおいだ」


狂っている。


こんな男に、穢されてたまるか。

なんとかしないと。


伊織の顔が浮かぶ。

力が湧いてくる。

恐怖で震える身体を奮い立たせた。


田崎は、男の中では小柄な方で、痩せている。

筋力はそこまでは、無いはずだ。


絵里奈は、左手で田崎の顔を押さえて、右手で目をめがけて、拳を入れた。


「うがあ」


馬乗りになっている田崎の力が抜ける。

田崎の顔を下から掴んで、また目をめがけて拳をうちつける。


「ぐ、ぐお」


田崎は、もんどりうって、絵里奈から離れるようにして倒れた。

絵里奈は、身体を起こそうとしたが、全身がしびれているような感覚で思うように動かない。

ふと、落としたスマホが視界に入る。

うつぶせになり、ほふく前進で、スマホに手を伸ばす。


「こ、この…くそがああ」

田崎が起き上がってきて、また絵里奈の背中を踏みつけた。

呼吸ができなくなる。


「げほ、げほ…」

「もう許さねえ…やってやる、やってやる…」


田崎の手が、うつぶせに倒れている絵里奈の臀部に触れてくる。

絵里奈のスーツの腰ベルトに手をかけてきた。


「…それ、以上、触るな…けだもの…」


絵里奈は息も絶え絶え、声に出した。

道路の冷たさが肌を通して、ひんやり伝わってくる。


その時だった。


「田崎ぃ!!!」


篠崎が、奥から走ってくるのが見えた。

それから少し遅れて、優子の姿もあった。


篠崎は、田崎に勢いよく、体当たりをした。

田崎が転がるようにして地面に倒れる。


篠崎が、田崎を取り押さえていた。


「絵里奈っ!」

優子が、駆け寄り、絵里奈を抱き起こす。


「…優子…」

ほっとした瞬間に、痛みと震えがやってきた。


「すぐに、救急車を。あと警察」

優子達の後から駆けつけてきた社員達に、優子は指示を出していた。


視界が少しずつ霞んでくる。

痛みと震えは、収まらない。


「絵里奈…しっかりして、大丈夫?絵里奈?」

優子は、絵里奈のブラウスが裂かれている事に気づいたのか、自分の着ていたジャケットを、絵里奈の身体を隠すように掛けてきた。


「優子…ありがとう」

社員達は、多分優子の部下達だろう。

田崎を逃げられないように、押さえつけていた。


遠くから、救急車のサイレンの音が聴こえてきた。


ふっと、視界が白くなった。


----


目を開く。

以前も似たような景色を見た気がする。

真っ白な天井。

薄暗い蛍光灯。



「気がついた?」

優子が見えた。


「ここは…」

「病院よ、会社指定の」

「病院…って、田崎は?!」

起き上がろうとしたが、全身に痛みが走った。


「はいはい、そのまま。もう大丈夫よ」

優子に身体を押さえられるようにして仰向けに戻る。

女物のトレーナーを着ていた。下は、パンツスーツのままだった。


「今、旦那さんこっちに向かってきてるから」

「伊織が?」

ふと、時計を見る。

一六時を少し過ぎたくらいだった。


「警察の人来ているけど、しゃべれる?」

優子が聞いてきた。


「うん、平気」

優子が立ち上がった。


奥から、警察官がやってきて自己紹介をした。女性の刑事だった。

三十分ほどで、事情聴取を終えると、刑事は退室していった。


「優子、ありがと、もう平気よ」

「平気って、顔見てごらんよ」

渡された鏡を覗くと、口の端に血の跡がある。


「まだ痛むでしょ?無理しないの」

上半身だけ起こしてみたが、若干の痛みはまだあるが、動けそうだ。


「この後、骨折とか無いか、検査してもらうから」

「労災?」


絵里奈が冗談交じりに言うと、優子も少しだけ苦笑いした。


「当然。まあ、背中の骨は折れてないとは思うけど…」

もう一度鏡を見る。


イヤリングは無事だった。

指輪も無事だった。触って確かめる。


「安心した」

「指輪より、自分の心配しないと…絵里奈」

ふと時間を見ると、17時を回っていた。


その時、医務室の扉が勢いよく開いた。

伊織が、顔面蒼白で入ってくる。

絵里奈の姿を捉えると、足早にこっちに向かってきた。


いきなり、ぎゅっと抱きしめられた。


少しだけ痛むが、それがかえって今は心地良かった。

「絵里奈…」

「伊織…」

伊織の背中に手を回した。

伊織は、何も言わなかった。

ただ、絵里奈の事を抱きしめていた。

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