70.「あいつだけは、許せない」――本社の影に潜む、田崎の狂気。狙われた“氷の薔薇”と、内ポケットの刃。
内部統制部門に異動してからの数週間。
田崎の机には、規程の改訂履歴やら、過去の監査資料やら、埃をかぶったファイルが山のように積み上がっていた。
毎日、紙の匂いと蛍光灯の白い光に晒されながら、田崎は黙々と作業を続けていた。
いや、続けているふりをしていた。
(なんで俺が、こんな)
ページをめくる手が止まる。
胸の奥に、じわりと黒いものが広がる。
(全部……あの女のせいだ)
水原絵里奈。
氷の薔薇と呼ばれた女。
自分を追い詰めた張本人。
支店での出来事が、何度も脳裏に蘇る。
---あなたの動きはすべて把握しています。
田崎は、しっぽを掴まれていたことに気が付かなかったのだ。
慌てて、そこから離れようとしたが、無理だった。
あの冷たい声。
あの目。
田崎に対して向けられたあの視線は、冷徹なる憎悪だった。
(俺を、見下しやがって)
田崎は、机の端を握りしめた。
爪が白くなるほど力が入る。
今は部長となった篠崎によって、懲戒免職こそ免れたが、別の目的があったのだ。
自分を飼い殺し、いや、最終的には、嬲り殺しにするためだ。
退職届を書いて提出するのを待っているのだろう。
(くそ…くそくそくそ…)
胸の奥の黒い塊が、さらに膨れ上がる。
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昼休み、給湯室で同僚たちが話している声が聞こえた。
「水原さん、来週本社に来るらしいよ」
「久しぶりじゃない。例の会議でしょ」
田崎の耳が、自然とそちらに向く。
(……来るのか)
その瞬間、胸の奥で何かが“形”を持った。
怒りでも、悲しみでもない。 もっと粘ついた、濁った感情。
(あいつだけは……許せない)
自分の人生が狂ったのは、あの女のせいだ。
逆恨みとも分かっている。だが、そう思い込むことでしか、自分を保てなかった。
田崎は、ゆっくりと給湯室を離れた。
足取りは重いのに、胸の奥だけが妙に熱い。
(会える……本社で…くくく…)
その考えが、田崎の中で静かに根を張る。そして、ゆっくりと、確実に広がっていった。
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本社会議の日。
田崎は、黙々と自分の机で作業を続けているが、時々時計を気にしている。
会議が終わるのは、昼過ぎだ。
午後から、部長職以上によるミーティングが行われることになっている。
朝、篠崎が言っていた。
「午後二時くらいまでは、かかりますので、それまでにここまで終わらせておいてください」
「はい」
絶対に終わらない物量を指定してから、資料室を出ていった。
毎度の事だった。
終わっていないのを理由に、叱責を受ける。
そして、最後に必ずこう言うのだ。
退職届はまだですか?と。
毎日、同じ言葉。
同じ圧。
同じ冷たさ。
(俺を追い出したいんだろ?だったら、最初から解雇にすればよかったじゃないか)
怒りが、喉の奥で泡立つ。
(全部……全部あの女のせいだ)
田崎は、ゆっくりと立ち上がった。
資料は、もうどうでもよかった。
時計を見る。
十一時五十七分。
昼休みの後、部長職以上によるミーティングがおそらく終わるのが午後二時くらい。
その後で、支店に戻るのだろう。
田崎は、内ポケットに、スタンガンとナイフを忍ばせていた。
水原絵里奈が帰る時にそっと後をつけて、最寄り駅に向かう途中、人気のないところで、襲うつもりだった。
殺すつもりは無かった。
冷たい目をした、あの女の心も、身体も、ずたずたに傷つけてやる。
凍り付いた薔薇のまま、粉々に砕いて、ぼろぼろにしてやる。
それから、自分に跪かせるのだ。
胸の奥で、黒い炎が静かに燃えていた。
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午後二時を少し回った頃だった。
全体ミーティングが終わり、解散となった。
絵里奈は会議室の扉を開けて、磨かれた廊下に出た。
本社の廊下は、昼下がり特有の静けさに包まれている。
窓から差し込む光が、床に薄い影を落とし、空気はどこか張りつめていた。
絵里奈は、エレベーターホールへ向かいながら、ふと視線を横に流す。
会議室前のソファには、資料を抱えた若手社員が数名。
誰もが彼女に気づくと、わずかに姿勢を正した。
「早く戻らないと」
そっと誰にも聞こえないようにつぶやいた。
支店での仕事が山積みだ。本社での会議は、いつも時間を奪われる。
歩きながら、絵里奈は無意識に呼吸を整えた。
エレベーターホールに差しかかった瞬間だった。
誰かの視線を感じた。
背中に、針のように細い気配が触れる。
絵里奈は立ち止まらない。
ただ、ほんの一瞬だけ、視線を横へ滑らせた。
廊下の奥。資料室の方へ続く影の中に、誰かが立っている気がした。
(……気のせい?)
そう思いながらも、胸の奥に小さなざわめきが生まれる。
しかし、表情には一切出さない。
エレベーターの扉が開く。
絵里奈はそのまま乗り込み、階数ボタンを押した。
扉が閉まる直前、廊下の奥の影が、わずかに動いたように見えた。
だが、扉は静かに閉まり、視界は途切れた。
エレベーターは静かに下降していった。




