7.彼女を絶望から救ったのは俺だった。――元上司の執着と、銀色のメルセデス。
その日、絵里奈は久しぶりに本社会議の会合へと顔を出した。
呼び出したのは片桐だった。理由は告げられていない。
会議室に入った瞬間、空気がわずかにざわついた気がした。
最近、彼女が会合に姿を見せなくなったことを、誰もが知っていたからだ。
絵里奈の座っている会合の席に、片桐が来た。
「久しぶりだな」
「はい、ご無沙汰しております」
軽く絵里奈は頭を下げた。
「支店も順調と聞いている」
「恐れ入ります」
「ただ、最近の様子を見ると、支店は忙しいのか?会合も出ずに、真っ先に支店に戻っているらしいな」
「それなりに」
「人手が足りないなら言ってくれ」
「はい」
あくまでも、上司と部下の範疇を逸脱しなかった。
「それと、くれぐれも軽率な行動は控えてくれ」
「心得ております」
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先日、マーカスの件で会社から事情聴取があった。
マーカスは「誤解を解きたい」と絵里奈を自宅に呼んだことは認めた。
その場にいた男たちに絵里奈へ危害を加えさせようとした事実については、一切口を閉ざした。
絵里奈は、事実を淡々と話した。
同じ日にマーカスの部屋にいた男たちも事情聴取を受け、
「マーカスに指示された」と素直に証言したらしい。
大手代理店の専属弁護士を相手に争っても勝ち目はないと判断したのだろう。
絵里奈が咄嗟に使った小型ライトによる防御行為も、正当防衛として認められた。
ただし、伊織の名前は出さなかった。
あの日、自分ひとりで逃げ切ったことにしていた。
伊織まで事情聴取に巻き込まれる可能性を考え、迷惑をかけたくなかったのだ。
片桐はその点に少し疑問を抱いたようだったが、絵里奈が自力で対処したと言われれば、完全に否定できるものでもない。
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「今日は、呼び立ててすまなかった」
「いえ。では、失礼いたします」
「もう行くのか」
「はい。夕方には支店に戻りたいので」
絵里奈は、席を立つと足早に会社から出た。
今日は金曜日。
愛しの彼が、銀色の馬に乗って迎えに来る。
そのことを思うだけで、自然と家路へ向かう足取りが軽くなった。
冬の風は冷たいのに、胸の奥だけは不思議と温かい。
彼を思い浮かべると、頬が少し緩んでしまう。
「…変わったな、私も」
家路へ続く道はいつもと同じはずなのに、
今日はどこか違って見えた。
景色が柔らかく、光が少しだけ優しい。
彼に会える。
ただそれだけを考えていた。
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片桐は、窓辺に立っていた。
先ほどの短いやり取りの中に、互いに触れられない思惑が静かに流れていた気がした。
その余韻が胸の奥に残っている。
「よっ」
声をかけてきたのは専務の木崎。
同期であり、性格は正反対。
片桐が実直に正面からぶつかるタイプなら、
木崎は策を弄し、敵さえ味方に変えてしまう男だ。
女好きで物欲も強い。
何度も衝突しながらも、必要な時には背中を預け合ってきた、不思議な関係だった。
「片桐ちゃん、相変わらず絵里奈ちゃんにご執着やね」
「いえ、専務。最近、会合に姿を見せなかったので。何かあったのかと」
「せやな〜。確かに最近おらんかった気はするわ。いつもは定時までは本社におるのになあ」
「支店が忙しいのか、あるいは問題があるのかもしれません」
「片桐ちゃん」
木崎は、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「絵里奈ちゃんに限って、それはないやろ」
「言わないだけかもしれません」
「かー、片桐ちゃんは絵里奈ちゃんのことになると、ほんま過保護やな。もう立派な支店長やで」
木崎は笑って言ったが、片桐の胸には別の影が差していた。
亡くした恋人の面影が、ふとよぎる。
大学時代、病気で失った恋人。
その面影を、絵里奈に見た。
入社直後から直属の部下として育て、
やがて関係を持った。
だが彼女は結婚し、会社を去り、
片桐の恋は静かに終わった。
その後の数十年、片桐は仕事だけに人生を費やした。
功績は認められ、出世もした。
だが五十歳を迎えた日に、ふと気づいた。
自分には趣味もなく、語るべきものもなく、ただのつまらない男になっていたことに。
社長から専務のポストを打診された時、片桐は木崎を専務に推薦し、自分は会社を辞めると申し出た。
木崎がそれを許さなかった。
勝ち逃げは許さない、と言われた。
結局、片桐は今のまま、会社に残ることになった。
そんな時、絵里奈の夫である男が、女性関係で反社会勢力と揉め事を起こしていると内部統制委員から報告が上がってきた。
事情聴取の結果、男は昔も似たような浮気をしていたらしい。
今度の相手の女は反社会勢力と繋がっており、借金を掴まされていたようだった。
片桐はその時、絵里奈のことを案じたが、夫婦間の問題でもあり、口出しはしなかった。
そんな時だった。
絵里奈が、会社のビルから飛び降りようとしていた。
無我夢中で助け出した。
身も心もボロボロになっていた。
身体を売ってまで借金を返済したと聞いた時、片桐の胸にも痛みが走った。
だが片桐は、一方で不謹慎にも、また機会が巡ってきたのかもしれない、とも考えてしまった。
男は懲戒免職になった。
絵里奈に弁護士を紹介し、離婚調停を進めさせ、
もう一度会社で働くように促した。
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「ま〜、今は頑張っとる。そっと見守るべきやで」
木崎の言葉は軽いようでいて、核心を突いていた。
「……はい」
片桐は窓の外に目を向けた。
会社を出ていく絵里奈の後ろ姿が、小さく見える。
その背中を、ただ静かに見守るしかない。
それが今の自分にできる、唯一のことだった。




