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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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69.「私は、そんなにヤワじゃないよ」――銀狼の甘えと、氷の薔薇の強さ。ふたりで紡ぐ、50代への序曲。

絵里奈は、支店のGM室の椅子に腰を下ろし、ひとり考え込んでいた。

伊織は、海を見たあの日から、ほんの少し変わった。


自分の弱さ、というより、胸の内を、以前より言葉にするようになったのだ。

伊織は、帰ってきた。確かに。

逃げようとしたわけではない。

連載中の小説のための調査、これまでとは違う執筆への向き合い方、そして元家族との再会。


いくつもの変化が重なり、気づかぬうちに彼の心へ負荷をかけていたのだろう。

絵里奈に甘えるのはよくない。

そう自分に言い聞かせていたに違いない。

だからこそ、絵里奈は伝えたのだ。

私は、そんなにヤワじゃないよ――と。


----


スマホが鳴った。

優子からだ。

仕事の話ではなさそうだ。

スマホを手に取り、通話ボタンを押す。


「もしもし、優子?」

「あ、絵里奈、今大丈夫?」

「うん、どした?」


ふと壁にかかっている時計を見ると、11時を示していた。


「あの、さ、実は、海斗がさ」

「…篠崎君がどうかした?」

「こないだ、木崎のところに行って、私達の事を言ってきたって」

「ああ、そうなんだ」

「でね…」


篠崎が木崎から言われた事を、優子は伝えてきた。


「…木崎さん、らしいというか、なんというか…」

「…本人、40過ぎて、ていうのが、凄く気にしてるの」

「まあ、珍しいといえば、珍しいけど」

「…それが、かわいいのよねぇ…」

優子が、年下好きとは思わなかった。

「ま、そういう事だから」

「うん…で、それだけ?」

「あ、あと…」


それからしばらく話した後で、通話を切った。

スマホをデスクに置く。

改めてPCに向かい、支店長から送られてきた次の本社会議の報告資料に目を通し始めた。


----


バスタブの隅から隅まで、洗剤のついたスポンジで拭き上げていく。

毎日清掃してるので、目立った汚れは無かった。

風呂の清掃は、仁達が生まれた頃からずっと、やっていた気がする。

料理も洗濯も、満足に出来ない伊織が唯一手伝えそうだったからだ。

晴子は神経質だった。

対して、自分は大雑把なので、色々気になるのだろう。

風呂の清掃以外は、あまりやらせてもらえなかった。


何故、あんな事をしたのか。


鏡をスポンジでこすりながら、考えた。

今の生活は、絵里奈に導かれはしたが、自分で勝ち取ったようなものだった。

やりがいのある仕事をする事が出来て、財も得た。そして愛する絵里奈と共に今後の人生を歩む。

なんの不満も無いはずだ。

だから、仁から、晴子の件で連絡があった時も、その過去には向き合えるはずだった。

しかし、実際にはそうではなかった。


卑怯者。

今の自分は、そう感じてしまったのだ。

そして、そう感じる事で、さらに、絵里奈の事も結果的に傷つけてしまった。

どうにもならなかった。

だが、なにもかも失って逃げるには、あまりにも重すぎた。

そして逃げた先に何があるというわけでもないのだ。


絵里奈には、抱きしめられた後で、叱られた。

対等でいようと思っていたのに、いつの間にか伊織は、自分が上だ。と勘違いしていたのだ。

それに気付かされた今は、ようやく気持ちが落ち着き始めた。


シャワーで洗剤を洗い流す。

鏡に映った自分の姿がやけに小さく見えた。

流し終えて、出てきたところ、ちょうど電話が鳴った。

伊織は、舌打ちした後に、通話ボタンを押した。


「もしもし」

「あ、伊織、ちょっと、聞きたいんだけど」


実の母だった。


「何?」

「何ってさ、この家の…」


伊織は、70過ぎたこの母親が嫌いだった。

伊織が幼い頃から、子供達の前で、夫婦喧嘩を繰り返しているのが嫌だった。


原因は、父親のギャンブルであるのは間違いなかったが、それは伊織が大人になってから知った事だった。

父親は、家を売る羽目になった。

伊織もその時は、高校生だった。

母親がどう思ったかは知らないが、伊織は別にどうとも思わなかった。

その父親は、家族で賃貸マンションに引っ越して、それから2年後に亡くなった。

父親が亡くなってから、祖母と母、兄と自分で、父親の遺産で家を買って移り住んだ。

そこからは、あまりいい思い出は無い。

伊織は借金を背負い、絵里奈に背負わせた。

だが、自分の借金だけは、母親が、父親の遺産から充填して一括返済をしてくれた。


その借金もメルセデスを買った頃に、母親に返した。

直木賞受賞後は、多額の現金を渡し、好きに生きられるようにしたのだ。

その金で、新しく買った家に住んでいるが、修繕やらなんやらがあり、時折こうして、電話が来るようになった。

前の妻がいた時は、そんな事は無かった。

絵里奈と再婚した時は水原家に挨拶をしてから、数カ月後に、さすがに顔を出した。

離婚の報告と、再婚の報告を同時にしたら、母親はあっけにとられていたが、絵里奈の事は気に入ったようだった。


「だから、そこはまだ平気だって」

「こないだも、業者が来て、屋根を替えてソーラーパネルを付けた方が良いって…」

「要らないって」


母親と話していると、ため息が出る。

とにかく、恨み節か、文句しか言わない。


「とにかく、一度見に来てよ」

「だから、色々あるんだって…」


母親は、なんだかんだ文句を言いながら、通話を終えた。

伊織には、兄がいる。兄に先に言え、といつも思っていたが、やはり連絡を取り合っていないようだった。



「寂しいんじゃない?」

「え?」

「伊織のお母さん」


昼に母から電話があった事を話すと、絵里奈はそう言った。


「そりゃ、そうだろうけど…」


伊織は、フライパンの中に湯をたっぷり注いで、蕎麦を茹でていた。

カウンターキッチンで、リビングが見える。

リビングで、ハイボール片手に、絵里奈はそう言ったのだ。


「顔出してあげた方がいいんじゃない?」

「う〜ん」

「私には優しいよ、伊織のお母さん」


それは、そうだろう。

伊織の性格上、伊織は自分の妻を最優先にするのを知っているのだ。

その妻から嫌われたら、伊織が口をきいてくれなくなる事くらいは想像つくはずだ。

リビングのテーブルに、グラスを置いて、絵里奈がキッチンにやってきた。


「あとは、私やるよ」

「じゃあ、これだけ」


そう言って、蕎麦の入ったフライパンの火を止める。

一分ほどその状態で放置してから、ザルに開けて湯切りをする。

一袋分2人前なので、フライパン自体はさほど重くない。


まだ19時にもなっていなかった。

最近は、絵里奈の帰りが早い。

店舗がそれぞれ落ち着いてきたのだ。これから、エリアを拡張していくかどうかで、また状況が変わってくるだろう。

数年後には、伊織も絵里奈も50代に突入する。

年相応の生活スタイルに徐々に変わりつつあった。


夕食を終えた後で、絵里奈が食器を拭きながらぽつりと言った。


「ねえ、伊織。最近、時間がゆっくり流れてる気がしない?」

「そうか?」

「うん。前はさ、毎日が走ってるみたいだったじゃない。仕事も、あなたの原稿も、全部」


伊織は、ふきんを受け取りながら小さく頷いた。


「そうだね。少し、落ち着いたのかもしれない」

「悪くないよね、こういうの」

「悪くない」


ふたりの間に流れる沈黙は、以前よりも柔らかく、温度があった。

言葉を急ぐ必要も、気持ちを隠す必要もない。

そんな時間が、ようやく手に入ったのだと気づく。

リビングのソファに腰を下ろすと、絵里奈がテレビをつけた。

ニュース番組の音が流れ、画面にはどこかの街の映像が映っている。

だが、ふたりとも内容にはほとんど注意を払っていなかった。


「ねえ、伊織」

「ん?」

「50代って、どんな感じなんだろうね」

「さあな。まだ想像つかない」

「でもさ、きっと今みたいに、ちゃんと笑ってたいよね」


その言葉に、伊織は少しだけ目を細めた。

絵里奈が未来の話をするとき、そこにはいつも自分が含まれている。

それが、何よりも嬉しかった。


「笑ってるよ。たぶん」

「たぶんじゃなくて、笑ってよ」

「努力する」

「努力じゃなくて、自然に笑ってよ」

「それは、絵里奈次第だな」

「なにそれ」

ふたりは、同時に小さく笑った。

その笑い声が、夜の静けさに溶けていった。


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