68.「今度はドライブで連れてって」――海辺の誓いと、専務室の告白。篠崎が明かした“40年目の真実”。
その日の夜。
仁に、無事に帰宅した旨のラインを送った後。
絵里奈は、ありとあらゆる方法で、伊織を慰めていた。
それは言葉であり、沈黙であり、寄り添う体温だった。
最近は、いつも求めに応じてだった。
今日は、自分から求めにいった。
伊織の気持ちは関係なかった。
自分が、そうしたかったのだ。
それは、久しぶりの感覚だった。
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伊織は、寝室のベッドで絵里奈と抱き合って横になっていた。
今日は、絵里奈が求めてきた。
自分を包み込んで、慰めようとしたのかもしれない。
心が脆くなっていた。
年のせいなのかもしれない。
昔の自分なら、晴子の言葉や、過去に対峙したとき、それも人生のうちだ、と考えたはずだった。
40代後半は、身体だけでなく、心も弱っていくのかと思った。
何故、あんなことをしたのか、自分でも分からなかった。
素直に、辛いと言えばよかったのだ。
「絵里奈…」
「どうしたの?」
「…今日は、本当にすまなかった」
「…そういう日もあるよ、でも、めずらしくて」
「そうだね」
「そういうところは、相変わらず意地張るのね」
「そういうところ?」
「弱さを見せない。見せたくない」
絵里奈は、伊織の腕の中で、囁くように言葉をつないでいる。
「…変わっていないな、昔から確かに。多分、見栄っ張りなんだよ、きっと」
伊織も、そう囁く。
「ねえ、今度、また行こうよ、あの海」
「え?」
「今度は、ドライブで連れてって」
「…分かった」
絵里奈はそう言うと、唇を重ねてきた。
それに答えるようにして、そっと唇を重ね返した。
「ほんとに連れてってよ」
唇が離れたあと、彼女は小さくそう呟いた。
顔は上げないまま、俺の胸に額を寄せてくる。
「ああ、行こう」
言葉にした途端、胸の奥がじんと熱くなる。
絵里奈はそのまま、安心したように息を吐いた。
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篠崎は、わずかに緊張を滲ませながら専務室の扉をノックした。
「失礼します」
「おう、入れ」
木崎の低い声が内側から返ってくる。
篠崎は静かに扉を開け、中へ足を踏み入れた。
木崎は自分のデスクに腰を下ろしたまま、こちらを見上げた。
「何や、話って……銀狼の件か?」
「いえ、違います」
木崎はわずかに眉をひそめ、椅子に座り直す。
「じゃあ何や。お前とワシの接点、他にないやろ」
「いえ、あります」
篠崎は真顔のまま、静かに言った。
「優子さん……中村部長のことです」
篠崎がそう告げた瞬間、木崎の表情が険しく変わった。
今まで一度も見たことのない顔だった。
「……なんやて」
声が、急に低く沈む。
「お前……何を知っとるんや」
篠崎は恐怖を押し隠しながら、それでも口を開いた。
「優子さんと、付き合っています」
篠崎の言葉に、木崎は椅子の上で支えを失い、半ば崩れ落ちるように身を沈めた。
「な、なんやて……嘘つくな、あほ」
そう吐き捨てた木崎の顔には、いつもの柔和さがゆっくりと戻っていた。
「本当です」
「……優子は、教えてくれへんかった」
篠崎は一度背筋を正し、静かに続けた。
「優子さんから、すべて聞いています」
「正人のことも?」
「はい。つい先日、お会いしました」
優子の家を訪ねた際、篠崎は優子の息子・正人と顔を合わせ、挨拶を交わしていた。
「そうか」
木崎の表情には、複雑な色が浮かんでいる。
「いつからや?」
「と、言いますと?」
「いつから、優子と付き合ってんねん?」
「創立記念パーティーの日からです」
「なんやて」
木崎は、それ以上言葉を継がず、沈黙した。
沈黙は、しばらく続いた。
やがて、木崎が切り出した。
「まさか、相手がお前とはのう……」
「不服ですか?」
「いや、そういうことやなくて、そのなんだ、どうしてこうなった?」
なれそめを聞いているのだ。
篠崎は、いきさつを話した。
話し終えるやいなや、木崎が吹き出した。
「あ〜はっはっ、なんやねん、初めて、て」
篠崎は、みるみる顔を真っ赤にした。
「……いけませんか?」
「い、いや、すまん、すまん。やけど初めてって……ぷぷぷ」
言わなければよかった、と篠崎は初めて後悔した。
「優子も罪な女やなあ。こんなうぶな青年の筆下ろしするなんて……」
「専務……あの……」
「お、あ、ああ、すまんな」
そんなにおかしいことなのか、と篠崎は思った。
「よし、分かった。こうしよ。お前が優子と付き合っとるんは、内緒にしとく」
篠崎は、はっとして木崎を見た。
「もし泣かしでもしたらな、そのときは、お前の秘密を全社員にばらしたるからな」
「秘密、ですか?」
「ああ。鬼の内部監査の篠崎部長、40過ぎまで童貞でしたってな」
篠崎は、また顔を真っ赤にした。
専務室には、木崎の笑い声がこだましていた。




