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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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67.「抱きしめてあげられなくて、ごめん」――冬の海辺の再会。絶望の銀狼を救い出した、氷の薔薇(絵里奈)の体温。

スマホの画面には、仁からのメッセージが並んでいた。


まだ見つからない。

どこに行ったんだろう。


絵里奈は、深く息を吸った。


どこか……落ち着ける場所。誰にも会わずにいられる場所。


そして、ひとつの記憶が、胸の奥で静かに浮かび上がった。



…一回しか行ったことが無いけど、あの駅から降りて行った時に、海があったんだ…


結婚する前、まだ恋人だった頃。夜のドライブの帰り道、何気なく言った伊織の言葉。


「前に一回だけ、普段乗らない電車に乗ってみようと思ったんだ」

「え、そうなの?」

「絵里奈と再会する前、休みの日にね」

「で、どこ行ったの?」

「海さ。最初についた駅の周辺が何もなくて。乗り換えていったんだ」


そのときの伊織の横顔。窓の外を見つめる静かな目。あのときの空気が、鮮明に蘇る。

絵里奈の胸が、ぎゅっと締めつけられた。


海だ。


理由が、感覚として落ちてきた。


涙がにじむ。


「伊織…海に行ったんだ」


不安は消えない。むしろ強くなる。

でも、どこへ向かえばいいのか分かった。

足が前へ進む気がした。


絵里奈は立ち上がり、玄関のコートを手に取った。


手袋をポケットにしまいながら、

小さくつぶやく。


「待ってて。迎えに行くから」


その声は震えていたが、確かな強さを帯びていた。

そして絵里奈は、海へ向かう列車が発着するホームへと足を向けた。



----



海は、相変わらず静かだった。

寄せては返す波の音が、一定のリズムで耳に届く。

その音に合わせるように、伊織の呼吸もゆっくりと落ちていった。


防波堤に腰を下ろし、膝に肘を置き、額を押さえる。


冷たい風が頬を撫でるたび、胸の奥の痛みが少しだけ和らぐような気がした。


ここにいると……何も考えなくて済む。


そう思った瞬間、胸の奥に、別の痛みが走った。


絵里奈の顔が浮かぶ。優しい声。温もり。


胸が、締めつけられる。



俺は……何をしてるんだ。



逃げるつもりじゃなかった。消えるつもりでもなかった。

でも、逃げている。

自分の心の葛藤から、自分の心の脆さから。

また、大切なものを失おうとしている。


絵里奈。


切なすぎる。

想いを伝えたい。

愛しすぎた。

眩しすぎる。


伊織は、ゆっくりと顔を上げた。

冬の海は、どこまでも広く、どこまでも冷たかった。

その冷たさが、逆に決意を固めていく。


戻らなきゃ。


その言葉が胸に落ちた瞬間、伊織は小さく息を吐いた。


伊織は、ゆっくりと立ち上がった。

足元の砂が、かすかに音を立てる。


海風が吹き抜け、コートの裾が揺れた。


「帰ろう」


誰に向けた言葉でもない。自分自身に言い聞かせるような、小さな、小さな声。

でも、その声は確かだった。


----


海に近づくにつれ、潮の匂いが濃くなっていった。

冬の風が頬を刺し、マフラーの隙間から冷気が入り込む。


絵里奈は、歩きながら何度も深呼吸をした。

胸の奥のざわつきは、海が近づくほど強くなる。


ここに、いる気がする。


理由はない。

ただ、心の奥がそう告げていた。


海沿いの細い道を抜けると、視界が一気に開けた。冬の海は灰色で、波は静かに寄せては返している。


その海辺にひとり、人影。

コートの裾が風に揺れている。


息を呑んだ。


「伊織…」


声は、風に溶けてしまいそうなほど小さかった。

人影が振り返る。


「伊織ぃっ!!」


走り出した。

砂浜に足を踏み入れ、ひとつ、またひとつと近づいていく。


伊織は、絵里奈を見つめていた。


距離が縮まる。

あと数歩。


砂が靴の下でざくりと音を立てる。


伊織は、ただ立っていた。

逃げるでもなく、迎えるでもなく、

風に吹かれながら、絵里奈を見つめていた。


その表情は、驚きと戸惑いと、そして、どうしようもない罪悪感が混ざっていた。


絵里奈は、もう言葉を探さなかった。

最後の一歩を踏み出し、そのまま勢いよく、伊織の胸に飛び込んだ。


「伊織…」


腕を回し、ぎゅっと抱きしめる。

冷たいコート越しに、伊織の体温が伝わる。

その温もりに触れた瞬間、胸の奥の緊張が一気にほどけていく。

涙があふれ出て止まらなかった。


伊織は、驚いたように固まった。腕を上げかけて、ためらって、ゆっくりと絵里奈の背に手を回した。


「絵里奈」

かすれた声。その声に、喉が震えた。


「どこ行ってたの…何も言わないで…スマホも置いて… 心臓止まるかと思った…」


伊織は、絵里奈の肩に額を押し当てた。

海風に紛れて、小さな吐息が漏れる。


「…すまない」


伊織は絞り出すようにそう言った。


絵里奈は、首を振った。 抱き締めた腕に力を込める。


「抱きしめてあげられなくて、ごめん…気づかなくてごめん…」


伊織の肩が、わずかに震えた。

その震えは、寒さのせいではなかった。


しばらく、二人は何も言わなかった。

波の音だけが、一定のリズムで寄せては返す。


そっと顔を上げた。


「…帰ろう、伊織」


伊織は、ゆっくりと頷いた。


伊織の手を取った。

冷たくなったその手を、両手で包み込む。


「大丈夫。一緒に帰ろう」


冬の海風が吹き抜ける中、二人はゆっくりと歩き出した。





海辺を離れ、駅へ向かう道を歩きながら、絵里奈は震える指でスマホを取り出した。

伊織の手は、まだ冷たかった。でも、その手を握り返してくれている。


仁くん…知らせなきゃ。


深呼吸をしてから、メッセージアプリを開く。

指が震えて、文字がうまく打てない。

それでも、なんとか送信した。


仁くん。伊織見つかったよ。今、一緒にいる。


送信ボタンを押した瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった。


ほんの数秒後、スマホが震えた。


仁からの返信。


本当に!?どこにいたの?大丈夫なの?


絵里奈は、歩きながら返信した。

海の近く。少し疲れてるけど、無事だよ。今から帰るところ。

送信した直後、今度は電話がかかってきた。


画面に「仁」の名前。

絵里奈は、伊織をちらりと見た。


伊織は、少しだけ頷いた。

通話ボタンを押す。


「絵里奈さん!? 本当に…本当に見つかったの?」


仁の声は、安堵と焦りが混ざって震えていた。


「うん。大丈夫。ちょっと疲れてるだけ。今、一緒に歩いてるよ」

「よかった……本当によかった」


その声は、涙をこらえているようだった。

絵里奈は、そっと言った。


「仁くんも、心配だったよね」


「俺、またお父さんを追い詰めたのかと思って…」


その言葉に、伊織がわずかに眉を寄せた。


絵里奈は、優しく言った。


「違うよ。仁くんのせいじゃない。誰のせいでもないの。ただ、ちょっとだけ、疲れちゃっただけ」

「帰ってくるんだよね?」


絵里奈は、伊織の手を握り直した。伊織も、握り返してくれた。


「一緒に帰るから、大丈夫」


仁は、しばらく黙ったあと、震える声で言った。


「ありがとう。絵里奈さん、ありがとう」


その言葉は、感謝だけじゃなく、安堵と、後悔と、そして父への愛情が滲んでいた。


絵里奈は、静かに答えた。

「また連絡するね。家に着いたら」

「うん……気をつけて」


通話が切れたあと、絵里奈はスマホを胸に抱いた。

伊織は、少しだけ視線を落としながら言った。


「仁、泣いてたか?」


絵里奈は、そっと微笑んだ。


「うん。でもね安心してたよ。あなたが無事で、帰ってくるって分かって」


伊織は、海風に吹かれながら、小さく息を吐いた。

その横顔は、まだ痛みを抱えていたが、確かに伊織そのものだった。

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