66.「抱きしめて欲しかったんだね」――遺された片方の手袋。冬の海へ消えた伊織を追う、絵里奈の慟哭。
駅前に着くと、朝の光がガラス張りの駅舎に反射して眩しかった。
人影はまばらで、まだ通勤ラッシュの気配もない。
絵里奈は、息を整えながら改札へ向かった。
胸の奥は、ずっとざわついたままだ。
ここに来た?
改札前に立つ。人の流れは少ない。 だが、何かを探すように視線を巡らせた。
そのとき、券売機の前で一人の駅員が落とし物の回収をしていた。
透明のビニール袋に入れられた何かが、目に留まった。
絵里奈は、思わず声をかけていた。
「すみません。その落とし物、見せてもらえますか?」
駅員は少し驚いたように振り返り、袋を持ち上げた。
「これですか?今朝、始発の時間帯に券売機の前で見つかったものです」
袋の中には、黒い革の手袋が片方だけ。
見覚えがあった。
伊織が、冬になると必ず使っていた手袋。
片方だけ、いつもポケットに入れていた癖まで思い出す。
「これは」
駅員が尋ねる。
「お知り合いの方のものですか?」
絵里奈は、震える声で答えた。
「はい。夫のものです」
駅員は頷き、袋を差し出した。
「では、お預かりしていたもの、お返ししますね。今朝の五時頃に見つかりました。その時間帯に駅をご利用されたのかもしれません」
五時。
まだ暗い時間。
絵里奈が眠っていた頃。
ここに……来たんだ。
手袋を受け取ると、革の冷たさが指先に伝わった。
その冷たさが、胸の奥まで染み込んでいく。
「ありがとうございます」
礼を言い、絵里奈は改札の向こうを見つめた。
ホームへ続く階段。
薄い朝の光。
電車の到着を告げるアナウンス。
電車に乗った?どこへ…
考えようとすると、胸が痛んだ。
そのとき、スマホが震えた。
仁からのメッセージ。
駅前にはいなかった。そっちは?
絵里奈は、手袋を握りしめたまま返信した。
伊織の手袋が落ちてた。
ここに来たのは間違いない。
送信したあと、絵里奈は改札の向こうを見つめた。
線路の先は、どこまでも続いている。
伊織がどこへ向かったのか、見当もつかない。
ただ、確かにここにいた。
その事実だけが、胸の奥で重く響いていた。
その事実だけで、足元がふらつきそうになる。
けれど、立ち止まっているわけにはいかなかった。
絵里奈は、ゆっくりと歩き出した。
涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえながら。
駅の構内は、朝の光に照らされていた。
人は少ないのに、足音だけがやけに響く。
どうして、何も言わずに行ったのだろう。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
昨夜の伊織の表情が、ふと浮かぶ。
静かで、穏やかで、いつも通りだったはず。
気づけなかった自分が、悔しかった。
ホームへ続く階段を上る。一段一段、足が重い。息が少しだけ乱れる。
ホームに出ると、冷たい風が吹き抜けた。その風が、涙を誘うように頬を撫でる。
絵里奈は、唇を噛んだ。
泣いてる場合じゃない。
そう思っても、胸の奥の痛みは消えない。
電車が通り過ぎるたび、風が巻き起こる。
そのたびに、絵里奈の髪が揺れ、視界が滲む。
「伊織、どこにいるの」
声にならないつぶやきが漏れる。
ホームの端まで歩き、線路の先を見つめる。
遠くへ続くレールが、まるで伊織の心の距離のようだ。
スマホが震えた。
仁からのメッセージ。
まだ見つからない。駅の反対側も見てみる。
絵里奈は、震える指で返信した。
私も探す。
手袋が落ちてた。
ここに来たのは確か。
送信してから、絵里奈は深く息を吸った。
涙がこぼれそうになる。でも、こぼしたら、立っていられなくなる気がした。
だから、こらえた。
「大丈夫、見つける、絶対に」
冬の風が吹き抜け、髪を揺らす。
その冷たさが、胸の奥のざわつきをさらに強める。
手の中には、伊織の片方だけの手袋。
握りしめるたび、革がかすかに軋む。
視界が滲みそうになるのを、絵里奈は必死にこらえた。
そのとき、ふと昨夜の伊織が、鮮明に脳裏に浮かんだ。
静かな声。どこか遠い目。
「先に寝てていいよ」
そう言った時の声の微妙なニュアンスの違い。
それにいつもなら、眠る前に必ず触れてくる。
求めてくる。
それが、最近は無かった。
その違和感が、今になって胸の奥で形を持ち始める。
絵里奈は、ゆっくりと息を吸った。
気づいてしまった。
伊織は、抱きしめて欲しかったんだ。
私に。
私に、抱きしめて欲しかったんだ。
伊織は、逃げたんじゃない。
怒ったんじゃない。
拒絶したんじゃない。
ただ、限界だったんだ。
「……そういうこと、だったんだね」
声に出すと、涙がこぼれそうになった。
でも、こぼさなかった。
こぼしたら、立っていられなくなる気がした。
絵里奈は、手袋を胸に抱きしめた。
「ごめんね…伊織」
誰に聞かせるでもない、自分自身への痛みの告白だった。
ホームに電車が滑り込む音が響く。その音が、胸の奥の痛みをさらに深くする。
「あれからずっと無理してたんだね」
涙が一粒、頬を伝った。風にさらわれるように消えていく。
絵里奈は、震える息を吐き、ゆっくりと顔を上げた。
「探すから。絶対に見つけるから」
その声は弱く、でも確かだった。
絵里奈は、涙を拭い、再び歩き出した。
その足取りは震えていても、確かに前へ進んでいた。
ーー
電車を降りると、冷たい風が頬を打った。
まだ朝の光は弱く、街全体が薄い灰色に沈んでいる。
ここは、昔、伊織が、一人で一回だけ来た場所だった。
海沿いの小さな町だった。
誰も自分を知らない。誰も自分を必要としない。
ただ、波の音だけが一定のリズムで続いている。
そんな場所。
駅から歩いて十五分ほど。海へ続く細い道を抜けると、視界が一気に開けた。
冬の海は、静かだった。荒れているわけでもなく、穏やかでもなく、ただ、淡々と寄せては返す波が続いている。
伊織は、防波堤に腰を下ろした。ポケットに手を入れると、片方だけの手袋がないことに気づいた。
「ああ、落としたか」
声に出すと、その小さな声が風にさらわれていった。
スマホは持ってきていない。連絡手段はない。誰とも繋がらない。
それが、今はちょうどよかった。
海を見つめながら、伊織はゆっくりと息を吐いた。
波の音だけが、一定のリズムで続いている。その音に合わせるように、伊織の呼吸もゆっくりと落ちていく。
少しだけ……ここにいさせてくれ。
逃げるつもりではない。消えるつもりでもない。
今は、ひとりでいたい。
誰の前にも立てない。
誰の声も聞けない。
誰の優しさも受け止められない。
そんな自分が、どうしようもなく情けなくて、どうしようもなく苦しかった。
俺は、何も変わってなど、いなかったのだ。
遠くで、船の汽笛が鳴った。
その低い音が、胸の奥に響く。
伊織は、膝に肘を置き、額を押さえた。
「すまない」
誰に向けた言葉か分からない。
晴子か、仁か、絵里奈か。
それとも、自分自身か。
ただ、その一言だけが、今の伊織のすべてだった。
冬の海は、その言葉を静かに飲み込んだ。




