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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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65/107

65.「スマホ、置いていったの」――自ら世界を断絶した伊織。冬の朝、絵里奈と仁が追う「銀狼」の消えた背中。

朝の光がカーテン越しに差し込み、寝室を淡く照らしていた。

絵里奈は、いつものように目を覚ました。


隣に手を伸ばす。そこにあるはずの温もりがない。


シーツは冷えていた。昨夜のまま、誰も寝ていないように。


絵里奈は、ゆっくりと上体を起こした。

胸の奥に、小さな違和感が生まれる。


「伊織?」


返事はない。

寝室を出て、リビングへ向かう。

キッチンにも、ソファにも、どこにも伊織の姿はなかった。

そして、テーブルの上に置かれたスマホが目に入った。


伊織のスマホだった。


どうして置いていくのだろう?忘れた?


絵里奈の心臓が、鼓動を早める。

外出なら持っていくはずだ。

それに、伊織は絵里奈に黙って、どこかに行くということは一度も無かった。

仕事でも、散歩でも、どこへ行くにも。


仕事部屋にも行ってみたが、もぬけの殻だった。

PCの電源も立ち上がっていない。

昨日の夜に、一段落ついてから、絵里奈の部屋に戻ってきていたのもいつも通り。

病院から戻ってきてからの様子も、特に変わったところも無かった。


違うのは、その日から一度も身体を重ねていないことくらいだった。

寝るときは一緒に寝ている。

大抵は、伊織が求めてくる。

気分が乗らない時もあるだろう。

そう思っていたくらいだ。


それにしても、スマホを置いていくというのは。


「伊織…」


そう呟き、絵里奈は、スマホをそっと手に取った。

画面は真っ暗で、通知もない。

電源が切れていた。

家の中をもう一度見回す。

財布はない。鍵もない。コートもない。

マイバッハのキーは机に置いたまま。


でも、スマホだけが、そこにある。


良い予感はしない。

胸の奥が、じわじわと締めつけられていく。


伊織のスマホの電源を入れる。

充電切れでは無かった。自分で切っていったのだ。

絵里奈とスマホと同じ機種。操作方法は手慣れている。

教えてもらったPINコードを入れる。


そのとき、スマホが震えた。

画面には「仁」の名前。

嫌な予感が、確信に変わる。

通話ボタンを押すと、仁の焦った声が飛び込んできた。


「お父さん!…やっと、つながった…今どこ?」

「今、いないの」


絵里奈の声は、思った以上に震えていた。


「え?…え、絵里奈さん?ど、どうして?」

「……スマホ、置いていったの」

「え、どこへ?」


絵里奈は一呼吸おいて言った。

「…分からない」

「え……?」


仁の声が、明らかに変わった。


「どういうこと……?」

「分からないの、どこにいるのか。でも昨夜も普通だったの。話もしたし、いつも通りだった」


仁はしばらく黙った。

その沈黙が、かえって不安を増幅させる。


「どこに行くにも、必ず一声かけてくるし、そうでないときはラインを送ってくる」

「絵里奈さん…」

「こんなことは今まで一度も無かった」


仁が再び黙った後、言った。


「俺、探してみる、探してみるよ。何か分かったら、すぐ連絡する」

「私も」


通話が切れたあと、絵里奈はスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。

胸の奥で、何かが静かに崩れていくような感覚が消えなかった。


----


土曜日の朝の駅前は、まだ眠っているように静かだった。

通勤客の姿はほとんどなく、時折、買い物袋を提げた老人がゆっくりと歩いていく。


仁は、その中に立ち尽くしていた。


胸の奥がざわついている。

呼吸が浅い。

手のひらが汗ばんでいる。


俺のせいだ。

俺が呼んだから。


何度も頭の中で再生される。


病室の扉を開けたときの父の表情。

晴子を見つめる目。

言葉にならない沈黙。

そして、帰り際のあの背中。


どれも、今になって胸を刺す。


「なんで、気づかなかったんだよ」


仁は、誰に向けるでもなくつぶやいた。


父が無理をしていたこと。

父が平気なふりをしていたこと。

父が、あの夜、何かを抱えたまま帰っていったこと。


俺が……追い詰めたんじゃないか。


胸の奥が、ぎゅっと縮む。


スマホを握りしめたまま、仁は駅前を見渡した。

人影はまばらで、父の姿などあるはずもない。


それでも、探さずにはいられなかった。


「お父さん」


声に出すと、喉の奥が熱くなった。


どこにいるんだよ。


仁は、歩き出した。

駅の構内へ、改札へ、ホームへ。

父がいるはずもない場所を、ひとつずつ確かめるように。


足が止まらない。

止めたら、何かが崩れてしまいそうだった。


----


夜明け前の空は、薄い青に変わり始めていた。

伊織は、駅のベンチに座ったまま、ぼんやりと空を見上げていた。


寒さが、コートの隙間からじわりと染みてくる。

それでも、動く気になれなかった。


俺は……何をしてるんだ。


自分でも分からない。

ただ、家に帰れなかった。


絵里奈の優しさが、仁の言葉が、晴子の微笑みが全部、胸の奥に重くのしかかっていた。


俺は誰のことも守れなかった。

寂しさを言い訳に結局逃げただけだ。

そして、自分だけが、安穏として生きている。


ポケットには、財布と鍵だけ。スマホは置いてきた。


誰とも繋がりたくなかった。誰の声も聞きたくなかった。


少しだけ……離れたい。


逃げるつもりではない。消えるつもりでもない。


自分の中の何かが壊れそうだった。


電車がホームに滑り込む音がした。

行き先は知らない。

どこでもよかった。


伊織は、ゆっくりと立ち上がった。


----


玄関の扉を開けると、冷たい朝の空気が頬を刺した。

冬の匂いがする。

深呼吸をしても、胸の奥のざわつきは少しも収まらなかった。


「伊織」


名前を呼んでも、返事はない。当然だ。それでも、呼ばずにはいられなかった。


コートのボタンを留め、マフラーを巻く。手は震えていたが、寒さのせいだけではなかった。

スマホを握りしめたまま、絵里奈は外へ踏み出した。


マンションのエントランスを出ると、まだ朝の光が低く、街は静かだった。


まずは駐車場へ向かう。マイバッハは、やはり、昨夜のまま、そこにあった。

歩いて出たのか。タクシーか、電車か。


どれも、らしくないのだ。

だからこそ、胸の奥が冷えていく。


エレベーター前の防犯カメラを見上げる。映像を確認したい衝動に駆られたが、そんなことができるはずもない。


伊織、どこに行ったの?

何も言わずにどこかになんて行くこと無かったよね?


歩き出す。

駅へ向かう道。

コンビニの前。

公園のベンチ。

伊織がよく歩く散歩コース。


ひとつずつ、確かめるように。

だが、どこにもいない。


スマホが震えた。

仁からのメッセージ。


駅前を探してる。まだ見つからない。


絵里奈は、胸の奥がぎゅっと縮むのを感じた。


返信を打つ。


私も探してる。見つかったら連絡するね。


送信してから、絵里奈は空を見上げた。

冬の空は高く、どこまでも冷たかった。


どうして、何も言わずに行くの。


昨夜の伊織の表情が、ふと脳裏に浮かぶ。

静かで、穏やかで、いつも通りでだった。


気づけなかった。


「大丈夫。大丈夫だから。私が必ず見つけるから」


誰に向けた言葉でもない。自分自身を支えるための言葉だった。


駅へ向かう道を、絵里奈は早足で進んだ。

伊織の姿を探しながら。

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