65.「スマホ、置いていったの」――自ら世界を断絶した伊織。冬の朝、絵里奈と仁が追う「銀狼」の消えた背中。
朝の光がカーテン越しに差し込み、寝室を淡く照らしていた。
絵里奈は、いつものように目を覚ました。
隣に手を伸ばす。そこにあるはずの温もりがない。
シーツは冷えていた。昨夜のまま、誰も寝ていないように。
絵里奈は、ゆっくりと上体を起こした。
胸の奥に、小さな違和感が生まれる。
「伊織?」
返事はない。
寝室を出て、リビングへ向かう。
キッチンにも、ソファにも、どこにも伊織の姿はなかった。
そして、テーブルの上に置かれたスマホが目に入った。
伊織のスマホだった。
どうして置いていくのだろう?忘れた?
絵里奈の心臓が、鼓動を早める。
外出なら持っていくはずだ。
それに、伊織は絵里奈に黙って、どこかに行くということは一度も無かった。
仕事でも、散歩でも、どこへ行くにも。
仕事部屋にも行ってみたが、もぬけの殻だった。
PCの電源も立ち上がっていない。
昨日の夜に、一段落ついてから、絵里奈の部屋に戻ってきていたのもいつも通り。
病院から戻ってきてからの様子も、特に変わったところも無かった。
違うのは、その日から一度も身体を重ねていないことくらいだった。
寝るときは一緒に寝ている。
大抵は、伊織が求めてくる。
気分が乗らない時もあるだろう。
そう思っていたくらいだ。
それにしても、スマホを置いていくというのは。
「伊織…」
そう呟き、絵里奈は、スマホをそっと手に取った。
画面は真っ暗で、通知もない。
電源が切れていた。
家の中をもう一度見回す。
財布はない。鍵もない。コートもない。
マイバッハのキーは机に置いたまま。
でも、スマホだけが、そこにある。
良い予感はしない。
胸の奥が、じわじわと締めつけられていく。
伊織のスマホの電源を入れる。
充電切れでは無かった。自分で切っていったのだ。
絵里奈とスマホと同じ機種。操作方法は手慣れている。
教えてもらったPINコードを入れる。
そのとき、スマホが震えた。
画面には「仁」の名前。
嫌な予感が、確信に変わる。
通話ボタンを押すと、仁の焦った声が飛び込んできた。
「お父さん!…やっと、つながった…今どこ?」
「今、いないの」
絵里奈の声は、思った以上に震えていた。
「え?…え、絵里奈さん?ど、どうして?」
「……スマホ、置いていったの」
「え、どこへ?」
絵里奈は一呼吸おいて言った。
「…分からない」
「え……?」
仁の声が、明らかに変わった。
「どういうこと……?」
「分からないの、どこにいるのか。でも昨夜も普通だったの。話もしたし、いつも通りだった」
仁はしばらく黙った。
その沈黙が、かえって不安を増幅させる。
「どこに行くにも、必ず一声かけてくるし、そうでないときはラインを送ってくる」
「絵里奈さん…」
「こんなことは今まで一度も無かった」
仁が再び黙った後、言った。
「俺、探してみる、探してみるよ。何か分かったら、すぐ連絡する」
「私も」
通話が切れたあと、絵里奈はスマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
胸の奥で、何かが静かに崩れていくような感覚が消えなかった。
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土曜日の朝の駅前は、まだ眠っているように静かだった。
通勤客の姿はほとんどなく、時折、買い物袋を提げた老人がゆっくりと歩いていく。
仁は、その中に立ち尽くしていた。
胸の奥がざわついている。
呼吸が浅い。
手のひらが汗ばんでいる。
俺のせいだ。
俺が呼んだから。
何度も頭の中で再生される。
病室の扉を開けたときの父の表情。
晴子を見つめる目。
言葉にならない沈黙。
そして、帰り際のあの背中。
どれも、今になって胸を刺す。
「なんで、気づかなかったんだよ」
仁は、誰に向けるでもなくつぶやいた。
父が無理をしていたこと。
父が平気なふりをしていたこと。
父が、あの夜、何かを抱えたまま帰っていったこと。
俺が……追い詰めたんじゃないか。
胸の奥が、ぎゅっと縮む。
スマホを握りしめたまま、仁は駅前を見渡した。
人影はまばらで、父の姿などあるはずもない。
それでも、探さずにはいられなかった。
「お父さん」
声に出すと、喉の奥が熱くなった。
どこにいるんだよ。
仁は、歩き出した。
駅の構内へ、改札へ、ホームへ。
父がいるはずもない場所を、ひとつずつ確かめるように。
足が止まらない。
止めたら、何かが崩れてしまいそうだった。
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夜明け前の空は、薄い青に変わり始めていた。
伊織は、駅のベンチに座ったまま、ぼんやりと空を見上げていた。
寒さが、コートの隙間からじわりと染みてくる。
それでも、動く気になれなかった。
俺は……何をしてるんだ。
自分でも分からない。
ただ、家に帰れなかった。
絵里奈の優しさが、仁の言葉が、晴子の微笑みが全部、胸の奥に重くのしかかっていた。
俺は誰のことも守れなかった。
寂しさを言い訳に結局逃げただけだ。
そして、自分だけが、安穏として生きている。
ポケットには、財布と鍵だけ。スマホは置いてきた。
誰とも繋がりたくなかった。誰の声も聞きたくなかった。
少しだけ……離れたい。
逃げるつもりではない。消えるつもりでもない。
自分の中の何かが壊れそうだった。
電車がホームに滑り込む音がした。
行き先は知らない。
どこでもよかった。
伊織は、ゆっくりと立ち上がった。
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玄関の扉を開けると、冷たい朝の空気が頬を刺した。
冬の匂いがする。
深呼吸をしても、胸の奥のざわつきは少しも収まらなかった。
「伊織」
名前を呼んでも、返事はない。当然だ。それでも、呼ばずにはいられなかった。
コートのボタンを留め、マフラーを巻く。手は震えていたが、寒さのせいだけではなかった。
スマホを握りしめたまま、絵里奈は外へ踏み出した。
マンションのエントランスを出ると、まだ朝の光が低く、街は静かだった。
まずは駐車場へ向かう。マイバッハは、やはり、昨夜のまま、そこにあった。
歩いて出たのか。タクシーか、電車か。
どれも、らしくないのだ。
だからこそ、胸の奥が冷えていく。
エレベーター前の防犯カメラを見上げる。映像を確認したい衝動に駆られたが、そんなことができるはずもない。
伊織、どこに行ったの?
何も言わずにどこかになんて行くこと無かったよね?
歩き出す。
駅へ向かう道。
コンビニの前。
公園のベンチ。
伊織がよく歩く散歩コース。
ひとつずつ、確かめるように。
だが、どこにもいない。
スマホが震えた。
仁からのメッセージ。
駅前を探してる。まだ見つからない。
絵里奈は、胸の奥がぎゅっと縮むのを感じた。
返信を打つ。
私も探してる。見つかったら連絡するね。
送信してから、絵里奈は空を見上げた。
冬の空は高く、どこまでも冷たかった。
どうして、何も言わずに行くの。
昨夜の伊織の表情が、ふと脳裏に浮かぶ。
静かで、穏やかで、いつも通りでだった。
気づけなかった。
「大丈夫。大丈夫だから。私が必ず見つけるから」
誰に向けた言葉でもない。自分自身を支えるための言葉だった。
駅へ向かう道を、絵里奈は早足で進んだ。
伊織の姿を探しながら。




