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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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64/107

64.「私は、あの人を解放したかった」――元妻が語る離婚の真実。そして伊織は、夜の街へ消えた。

玄関の扉を開けると、リビングの灯りが柔らかく漏れていた。

絵里奈はソファに座り、膝の上に置いたスマホを見つめていた。

伊織の足音に気づくと、顔を上げる。


「おかえり」


その声は、ただ帰ってきたことを受け止める音だった。

伊織は靴を脱ぎ、ゆっくりとリビングに入った。

絵里奈の隣に座ると、彼女はそっと体を向けた。


「どうだった?」

「落ち着いてたよ。思ったよりも」

「そっか」


絵里奈は、それ以上聞かなかった。

聞きたいことはたくさんあるはずだ。


しばらく沈黙が流れた後、伊織はつぶやいた。


「何も聞かないの?」


そう言うと、絵里奈はそっと伊織の手に触れてきた。


「あなたが帰ってきてくれた。それだけで十分」


伊織は、少しだけ目を閉じた。

その言葉が、胸の奥に静かに染みていく。


「……ありがとう」

「ううん」


絵里奈は、微笑んだ。

その笑みは、強がりではなく、ただの優しさだった。

伊織は、絵里奈の手を握り返した。


自分が生きているのは、今ここなのだ。


そう実感した。


----


数日後。

晴子の容体は安定し、一般病棟へ移った。


仁は、病院の会計窓口で手続きをしようとしていた。

事務員が画面を確認すると、少し驚いたように顔を上げた。


「成田晴子さんの入院費用ですが、すでに全額、お支払い済みになっています」

「……え?」


仁は思わず声を上げた。

理解が追いつかず、眉をひそめる。


「ど、どういうことですか? 俺、まだ何も……」


事務員は、画面から目を離さず淡々と続けた。


「今後発生する追加費用も含めて、すべてこちらの請求先に回すように、との指示が出ています」

「え?」


仁の声は、さっきよりも小さかった。

驚きというより、状況を飲み込めずに漏れた声だった。

だが、仁は、すぐに気づいた。


「……お父さん、か」


仁は、しばらくその場に立ち尽くした。

胸の奥が、じんわりと熱くなる。

(なんで、そんなこと)

怒りでも、感謝でもない。ただ、言葉にならない感情が胸に広がっていく。


病室に戻ると、晴子が窓の外を見ていた。


「どうしたの、仁?」


仁は、母の顔を見つめた。そして、ゆっくりと口を開いた。


「入院費、全部支払われてた」


晴子は、驚いたように目を見開いた。だが、すぐに静かに目を伏せた。


「そう」


仁は、母の横に座った。


「お父さんでしょ、きっと」


晴子は、少しだけ微笑んだ。


「あの人らしいわ」

「らしいって?」

「不器用で、言わないで、でも大事なところだけは、ちゃんとやる人だったから」


仁は、言葉を失った。

晴子は、窓の外を見つめながらつぶやいた。


「ありがとう、って言えないけれど」


仁は、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


母の横顔は、どこか遠くを見ているようで、けれど確かに今ここにあった。


「……お母さん」


呼びかけると、晴子はゆっくりと仁のほうへ視線を戻した。

その目には、疲れと、長い年月を抱えた静かな光があった。


「ねえ、仁。あなたには、ちゃんと話しておきたいことがあるの」


仁は姿勢を正した。

晴子は、少し息を整え、言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。


「離婚のこと」

「え……?」


仁は、驚いたように眉を上げた。


晴子は、かすかに微笑んだ。その笑みは、どこか寂しく、どこか優しかった。


「私は病気がちになってからは、あの人は、ずっと家の事も手伝ってくれていた」

「知ってるよ」

「仁達が家から出ていった時に、家の中が、結衣とあの人だけになった」


仁の妹の結衣は、今は家で留守番をしている。

仁は一時、就職のため、家を出ていた時期があった。


「お父さんは、多分、私に女としての役割を求めていたんだと、思う。けれど、私はずっと、結衣に付きっきりだった」


仁は黙って聞いていた。


「病気もあるかもしれないけれど、そういう女としての役割を忘れていたのよ」

「…」

「なによりも、結衣は私の自慢だった。別にあなたたちがだめだったというわけじゃないのよ」


結衣は、仁よりも弟よりも優秀だった。


「お父さんのことを、ちゃんと見てあげられなかった。それでも、あの人は、何も言わなかった」

「そんなことが」

「お父さんは、多分苦しくて、寂しかったはず」


晴子は、ゆっくりと視線を落とした。


「仁。離婚を言い出したのは、私のほうなの」


仁は息を呑んだ。


「……お父さんじゃなくて?」

「ええ。あの人は、最後まで家族でいようって言ってくれた。でも」


晴子は、少しだけ目を閉じた。


「私は、あの人を解放してあげたかったの。私達から」


仁の胸が、また締めつけられた。


「そんな理由、聞いてない」

「言うわけないでしょう?」


晴子は、苦笑に近い微笑みを浮かべた。


「あの人は、自分のせいだと思ってるはずよ。でも、本当は違うの」


仁は、拳を膝の上で握りしめた。


晴子は、優しく言った。


「仁。あなたは、お父さんを責めなくていいのよ」


仁は頷いた。

涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえながら。


病室には、静かで温かい、そして少し切ない空気が満ちていた。


----


その夜。

絵里奈が眠りについた後。

ひとりで、暗いリビングに座っていた。

あの日、病院から帰ってきてからも、今までと変わらない日常を送っていた。

だが、ずっと心に何かが刺さったかのような感覚をぬぐえずにいた。


家族を守れなかった。

晴子を支えられなかった。

仁にも、結衣にも、何もしてやれなかった。

そして今、絵里奈にまで、過去の影を背負わせている。


灯りはついていない。

カーテン越しの街の街頭だけが、薄く部屋を照らしている。


晴子の言葉。

仁の言葉。

絵里奈の優しさ。

どれも温かいはずなのに、胸の奥では、何かが静かに軋んでいた。


俺は何を望んだ?


胸の奥が、痛んだ。


死のうと思った。それは本当だった。

だが、絵里奈に救われた。

彼女がいれば、どんな苦しみにも耐えられると思って、また再び生きている。

あれだけ苦しかった日常が、今では信じられないくらい、日々が充実もしている。


だが、なんだ、これは。

忘れていたはずの、元家族との思い出。

家族といた時には忘れていた、若かりし頃の絵里奈との苦い思い出。

次から次へと脳裏に浮かんでくる。


伊織は、ゆっくりと立ち上がった。

音を立てないように、そっと寝室の扉を見つめる。

絵里奈は、静かに眠っているはずだ。


ごめん。


声にはならなかった。

ただ、胸の奥でつぶやいた。


玄関で靴を履く。

コートを羽織る。

スマホは置いたまま。


鍵を回す音が響かないように、そっと扉を閉めた。


外の空気は冷たかった。深夜の街は静まり返っている。

どこへ行くのか、自分でも分からない。


ただ、ここにいてはいけない気がした。


どうしようもなく苦しかった。


歩き出す。足音だけが、夜の道に落ちていく。


スマホのないポケットは軽く、その軽さが、妙に心地よかった。


ただ、自分の中の何かが壊れそうだった。

自分の中の何かが壊れそうで、

誰の前にも立てないだけだった。


街灯の下を通り過ぎ、伊織の姿は、静かな夜の中に溶けていった。

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