64.「私は、あの人を解放したかった」――元妻が語る離婚の真実。そして伊織は、夜の街へ消えた。
玄関の扉を開けると、リビングの灯りが柔らかく漏れていた。
絵里奈はソファに座り、膝の上に置いたスマホを見つめていた。
伊織の足音に気づくと、顔を上げる。
「おかえり」
その声は、ただ帰ってきたことを受け止める音だった。
伊織は靴を脱ぎ、ゆっくりとリビングに入った。
絵里奈の隣に座ると、彼女はそっと体を向けた。
「どうだった?」
「落ち着いてたよ。思ったよりも」
「そっか」
絵里奈は、それ以上聞かなかった。
聞きたいことはたくさんあるはずだ。
しばらく沈黙が流れた後、伊織はつぶやいた。
「何も聞かないの?」
そう言うと、絵里奈はそっと伊織の手に触れてきた。
「あなたが帰ってきてくれた。それだけで十分」
伊織は、少しだけ目を閉じた。
その言葉が、胸の奥に静かに染みていく。
「……ありがとう」
「ううん」
絵里奈は、微笑んだ。
その笑みは、強がりではなく、ただの優しさだった。
伊織は、絵里奈の手を握り返した。
自分が生きているのは、今ここなのだ。
そう実感した。
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数日後。
晴子の容体は安定し、一般病棟へ移った。
仁は、病院の会計窓口で手続きをしようとしていた。
事務員が画面を確認すると、少し驚いたように顔を上げた。
「成田晴子さんの入院費用ですが、すでに全額、お支払い済みになっています」
「……え?」
仁は思わず声を上げた。
理解が追いつかず、眉をひそめる。
「ど、どういうことですか? 俺、まだ何も……」
事務員は、画面から目を離さず淡々と続けた。
「今後発生する追加費用も含めて、すべてこちらの請求先に回すように、との指示が出ています」
「え?」
仁の声は、さっきよりも小さかった。
驚きというより、状況を飲み込めずに漏れた声だった。
だが、仁は、すぐに気づいた。
「……お父さん、か」
仁は、しばらくその場に立ち尽くした。
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
(なんで、そんなこと)
怒りでも、感謝でもない。ただ、言葉にならない感情が胸に広がっていく。
病室に戻ると、晴子が窓の外を見ていた。
「どうしたの、仁?」
仁は、母の顔を見つめた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「入院費、全部支払われてた」
晴子は、驚いたように目を見開いた。だが、すぐに静かに目を伏せた。
「そう」
仁は、母の横に座った。
「お父さんでしょ、きっと」
晴子は、少しだけ微笑んだ。
「あの人らしいわ」
「らしいって?」
「不器用で、言わないで、でも大事なところだけは、ちゃんとやる人だったから」
仁は、言葉を失った。
晴子は、窓の外を見つめながらつぶやいた。
「ありがとう、って言えないけれど」
仁は、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
母の横顔は、どこか遠くを見ているようで、けれど確かに今ここにあった。
「……お母さん」
呼びかけると、晴子はゆっくりと仁のほうへ視線を戻した。
その目には、疲れと、長い年月を抱えた静かな光があった。
「ねえ、仁。あなたには、ちゃんと話しておきたいことがあるの」
仁は姿勢を正した。
晴子は、少し息を整え、言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。
「離婚のこと」
「え……?」
仁は、驚いたように眉を上げた。
晴子は、かすかに微笑んだ。その笑みは、どこか寂しく、どこか優しかった。
「私は病気がちになってからは、あの人は、ずっと家の事も手伝ってくれていた」
「知ってるよ」
「仁達が家から出ていった時に、家の中が、結衣とあの人だけになった」
仁の妹の結衣は、今は家で留守番をしている。
仁は一時、就職のため、家を出ていた時期があった。
「お父さんは、多分、私に女としての役割を求めていたんだと、思う。けれど、私はずっと、結衣に付きっきりだった」
仁は黙って聞いていた。
「病気もあるかもしれないけれど、そういう女としての役割を忘れていたのよ」
「…」
「なによりも、結衣は私の自慢だった。別にあなたたちがだめだったというわけじゃないのよ」
結衣は、仁よりも弟よりも優秀だった。
「お父さんのことを、ちゃんと見てあげられなかった。それでも、あの人は、何も言わなかった」
「そんなことが」
「お父さんは、多分苦しくて、寂しかったはず」
晴子は、ゆっくりと視線を落とした。
「仁。離婚を言い出したのは、私のほうなの」
仁は息を呑んだ。
「……お父さんじゃなくて?」
「ええ。あの人は、最後まで家族でいようって言ってくれた。でも」
晴子は、少しだけ目を閉じた。
「私は、あの人を解放してあげたかったの。私達から」
仁の胸が、また締めつけられた。
「そんな理由、聞いてない」
「言うわけないでしょう?」
晴子は、苦笑に近い微笑みを浮かべた。
「あの人は、自分のせいだと思ってるはずよ。でも、本当は違うの」
仁は、拳を膝の上で握りしめた。
晴子は、優しく言った。
「仁。あなたは、お父さんを責めなくていいのよ」
仁は頷いた。
涙がこぼれそうになるのを、必死にこらえながら。
病室には、静かで温かい、そして少し切ない空気が満ちていた。
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その夜。
絵里奈が眠りについた後。
ひとりで、暗いリビングに座っていた。
あの日、病院から帰ってきてからも、今までと変わらない日常を送っていた。
だが、ずっと心に何かが刺さったかのような感覚をぬぐえずにいた。
家族を守れなかった。
晴子を支えられなかった。
仁にも、結衣にも、何もしてやれなかった。
そして今、絵里奈にまで、過去の影を背負わせている。
灯りはついていない。
カーテン越しの街の街頭だけが、薄く部屋を照らしている。
晴子の言葉。
仁の言葉。
絵里奈の優しさ。
どれも温かいはずなのに、胸の奥では、何かが静かに軋んでいた。
俺は何を望んだ?
胸の奥が、痛んだ。
死のうと思った。それは本当だった。
だが、絵里奈に救われた。
彼女がいれば、どんな苦しみにも耐えられると思って、また再び生きている。
あれだけ苦しかった日常が、今では信じられないくらい、日々が充実もしている。
だが、なんだ、これは。
忘れていたはずの、元家族との思い出。
家族といた時には忘れていた、若かりし頃の絵里奈との苦い思い出。
次から次へと脳裏に浮かんでくる。
伊織は、ゆっくりと立ち上がった。
音を立てないように、そっと寝室の扉を見つめる。
絵里奈は、静かに眠っているはずだ。
ごめん。
声にはならなかった。
ただ、胸の奥でつぶやいた。
玄関で靴を履く。
コートを羽織る。
スマホは置いたまま。
鍵を回す音が響かないように、そっと扉を閉めた。
外の空気は冷たかった。深夜の街は静まり返っている。
どこへ行くのか、自分でも分からない。
ただ、ここにいてはいけない気がした。
どうしようもなく苦しかった。
歩き出す。足音だけが、夜の道に落ちていく。
スマホのないポケットは軽く、その軽さが、妙に心地よかった。
ただ、自分の中の何かが壊れそうだった。
自分の中の何かが壊れそうで、
誰の前にも立てないだけだった。
街灯の下を通り過ぎ、伊織の姿は、静かな夜の中に溶けていった。




