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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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63/107

63.「元、家族です」――誰にも告げず、受付で記した署名。過去への責任と、絵里奈への帰還。

病室の前の椅子に座ったまま、伊織はしばらく動けなかった。

扉の向こうからは、機械の規則的な電子音が聞こえる。

それが、妙に遠く感じられた。


仁は、少し離れた壁にもたれ、何も言わずに待っている。

急かさない。

促さない。

ただ、そこにいる。


伊織は、膝の上で組んだ手を見つめた。

指先がわずかに震えている。


何を言えばいい。

何を言える。


離婚してからの年月が、急に重さを持ってのしかかってくる。

晴子の病気、すれ違い、疲弊、諦め。

それでも、家族だった時間は確かにあった。


扉の向こうにいるのは、過去の妻ではなく、かつて自分と人生を共にした人だ。


仁が、静かに声をかけた。


「お父さん」


伊織は顔を上げる。


「無理に入らなくてもいいよ。でも、もし入らないなら、それはそれで、きっと後で考えると思う」


責める言い方ではなかった。

ただ、事実を置いただけの声。


伊織は、ゆっくりと息を吸った。

胸の奥が、まだざわついている。

落ち着いてはいない。

でも、逃げたいわけでもない。


俺は、どうしたい?


その問いだけが、静かに胸の中で響く。


扉の前に立つ。

手を伸ばす。

ノブに触れる直前で、指が止まる。


ほんの数秒。

けれど、その数秒が永遠のように長い。


仁が、そっと言った。


「お父さんが決めていいんだよ」


その言葉に、伊織は目を閉じた。


そして。


扉の前で一度、深く息を吸う。

胸の奥がまだざわついている。

それでも、伊織はノブに手をかけた。


----


ゆっくりと扉を開けると、白い光に照らされた病室の空気が、ひんやりと肌に触れた。


機械の電子音が、規則正しく響いている。

その音が、妙に大きく感じられた。


ベッドの上で、晴子は目を閉じていた。

頬は少しこけ、呼吸は浅い。

だが、苦しそうではない。

ただ、静かに眠っているように見えた。


伊織は、足を一歩踏み入れた。

その瞬間、晴子のまぶたがゆっくりと動いた。


「……いおり……?」


かすれた声だった。

驚きと、戸惑いと、信じられないという感情が混ざっている。


伊織は、言葉が出なかった。

喉が固く閉じてしまったようだった。

晴子は、弱々しく微笑んだ。

その笑みは、昔と変わらない形をしていた。


「来てくれたのね」


伊織は、ようやく声を絞り出した。


「ああ」

それだけだった。

それ以上の言葉が見つからなかった。


晴子は、ゆっくりと視線を伊織に向けた。

その目には、責める色も、恨む色もなかった。

ただ、長い時間を経た人間だけが持つ、静かな諦念と、どこかの優しさがあった。


「仁が、連絡してくれたのね」

「そうだ」

「ごめんね。こんなときだけ」

「いい」


伊織は、短く言った。

その声は、少し震えていた。


晴子は、しばらく伊織の顔を見つめていた。

何かを探すように。

何かを確かめるように。


そして、ぽつりとつぶやいた。


「元気そうで、よかった」


胸の奥が、静かに痛んだ。

その言葉は、責任でも、未練でもない。

ただ、かつて家族だった人間としての、素朴な気持ちだった。


伊織は、ベッドのそばまで歩み寄った。

椅子に座ると、晴子は少し安心したように目を細めた。


「再婚、したんだって?」

「仁から聞いたのか?」

「…授賞式のスピーチ、見たから…」

「そうか」

「仁は、秘密にしてたみたいね」


男同士の秘密だった。

仁は約束を守っていた。


晴子は、微笑んだ。

「よかった。あなた、幸せそうだったから」


その言葉に、伊織は返事ができなかった。

喉の奥が熱くなり、言葉が形にならない。


晴子は、ゆっくりと目を閉じた。

まるで、安心したように。


「ありがとう。来てくれて」


伊織は、しばらくその言葉を受け止められなかった。

ただ、椅子に座ったまま、晴子の呼吸の音を聞いていた。


仁は、扉の外で静かに待っている。

急かさない。

見守るだけだ。


病室の空気は、静かで、重くて、どこか優しかった。


----


病室の扉を静かに閉めると、廊下の空気がひんやりと肌に触れた。

さっきまで晴子の呼吸音を聞いていた耳が、急に静寂に放り出される。


仁は、少し離れた壁にもたれていた。

腕を組んだまま、俯いている。

伊織が出てきたのに気づくと、ゆっくり顔を上げた。


「……どうだった?」

「……落ち着いてたよ。思ったより、ずっと」


それだけ言うと、仁は小さくうなずいた。


「うん。さっきより、だいぶ楽そうだった」


二人の間に、短い沈黙が落ちる。

廊下の遠くで、ナースコールの電子音が鳴った。


仁が、ぽつりとつぶやいた。


「お父さん。来てくれて、ありがとう」


伊織は、少し驚いたように仁を見た。


「なんで、お前が礼を言うんだ」

「だって」


仁は言葉を探し、視線を床に落とした。


「お母さん、ずっと気にしてたから。お父さんのこと」


胸が、静かに痛んだ。


「……そうか」

「うん。離婚してからも、たまに話してたよ。元気にしてるかなって」


返す言葉を持たなかった。

晴子のあの弱々しい笑みが、胸の奥で揺れ続けている。


仁は、続けた。


「お父さんが来たって言ったら…すごく安心した顔してた」


その言葉は、伊織の心にゆっくりと沈んでいった。

しばらくして、仁がふっと息を吐いた。


「俺さ、ずっと迷ってたんだよ。お父さんに連絡していいのかどうか」

「なんで迷うんだ」

「だってお父さんにはもう、新しい生活があるでしょ。絵里奈さんもいるし。余計なことしたくなかった」


伊織は、ゆっくりと首を振った。


「余計なんかじゃない。お前が連絡してくれて、よかった」


仁は、驚いたように目を見開いた。

その表情は、子どもの頃の面影を少しだけ残していた。


「そう言ってくれると、助かる」


伊織は、壁にもたれ、深く息を吐いた。


「お前も大変だったな」


仁は、少し笑った。

疲れた笑いだったが、どこか誇らしげでもあった。


「まあね。でも、俺たちでなんとかやってるよ。 お父さんがいなくても」


その言葉に、伊織の胸が一瞬だけ締めつけられた。

だが、仁は続けた。


「でもいなくてもやれるけど、いてくれたら、もっとよかったとは思うよ」


それは責める言葉ではなかった。

ただ、事実を静かに置いただけの声だった。


目を閉じた。

胸の奥に、言葉にならないものが溜まっていく。


「すまなかった」


その言葉を、今ようやく言えるようになった。


仁は、首を横に振った。


「謝らなくていいよ」

「そうだな」

「とりあえず、今日は来てくれてよかったよ」


二人の間に、静かな空気が流れた。

重くはない。どこか、温度のある沈黙だった。


伊織は、仁に背中を向けた。


「帰るの?」

「ああ」

「また何かあったら連絡する」

「そうしてくれ」


それだけを言い、伊織は歩き出した。


----


病院の受付は、夜の時間帯特有の静けさに包まれていた。

照明は少し落とされ、窓口には事務員が一人だけ座っている。

伊織は、ゆっくりとカウンターに近づいた。


「すみません」


事務員が顔を上げる。


「はい、どうされましたか?」


伊織は、少しだけ息を整えてから言った。


「先ほど入院した成田晴子という者の、入院費用について伺いたいんですが」


事務員はパソコンを操作し、画面を確認する。


「成田晴子さん。はい、こちらですね。まだ入院されたばかりなので、詳細な費用は確定しておりませんが、ご家族の方でしょうか?」


伊織は、一瞬だけ言葉に詰まった。


「元、家族です」


事務員は驚いた様子も見せず、淡々と頷いた。


「では、どういったご用件でしょう?」

「今回の入院にかかる費用をすべて、私が負担したいんです」


事務員の手が止まった。


「すべて、ですか?」

「はい。保険適用後の自己負担分も、差額ベッド代も、追加の検査費用も全部、こちらに請求してください」


事務員は慎重に言葉を選ぶように、少しだけ声を落とした。


「ご本人やご家族の方には……?」

「伝えなくて結構です」


その言葉は、驚くほど静かだった。

決意というより、長い時間をかけて沈殿した責任のような響きがあった。

事務員は、しばらく伊織の顔を見つめ、それから深く頷いた。


「承知しました。では、こちらにご署名をお願いします」


差し出された書類に、伊織は迷いなく名前を書いた。

ペン先が紙を滑る音だけが、受付の空気に響く。


署名を終えると、事務員が丁寧に書類を受け取った。


「ご対応、ありがとうございます。費用が確定次第、こちらにご連絡いたします」

「お願いします」


伊織は軽く頭を下げ、受付を離れた。


自動ドアが開くと、夜の冷たい空気が頬を撫でた。

駐車場の向こうに広がる暗い空を見上げる。


誰に知られる必要もない。

誰に褒められることでもない。


ただ、今の自分がやるべきことをやっただけだ。


ポケットの中でスマホが震えた。

絵里奈からのメッセージだ。


家に着いたよ。ゆっくり帰ってきてね。


伊織は、少しだけ目を閉じた。


今から帰る。


そう打ち込み、送信した。


夜風の中、伊織は車へ向かって歩き出した。

過去と現在の境界線を、静かに踏みしめながら。


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