63.「元、家族です」――誰にも告げず、受付で記した署名。過去への責任と、絵里奈への帰還。
病室の前の椅子に座ったまま、伊織はしばらく動けなかった。
扉の向こうからは、機械の規則的な電子音が聞こえる。
それが、妙に遠く感じられた。
仁は、少し離れた壁にもたれ、何も言わずに待っている。
急かさない。
促さない。
ただ、そこにいる。
伊織は、膝の上で組んだ手を見つめた。
指先がわずかに震えている。
何を言えばいい。
何を言える。
離婚してからの年月が、急に重さを持ってのしかかってくる。
晴子の病気、すれ違い、疲弊、諦め。
それでも、家族だった時間は確かにあった。
扉の向こうにいるのは、過去の妻ではなく、かつて自分と人生を共にした人だ。
仁が、静かに声をかけた。
「お父さん」
伊織は顔を上げる。
「無理に入らなくてもいいよ。でも、もし入らないなら、それはそれで、きっと後で考えると思う」
責める言い方ではなかった。
ただ、事実を置いただけの声。
伊織は、ゆっくりと息を吸った。
胸の奥が、まだざわついている。
落ち着いてはいない。
でも、逃げたいわけでもない。
俺は、どうしたい?
その問いだけが、静かに胸の中で響く。
扉の前に立つ。
手を伸ばす。
ノブに触れる直前で、指が止まる。
ほんの数秒。
けれど、その数秒が永遠のように長い。
仁が、そっと言った。
「お父さんが決めていいんだよ」
その言葉に、伊織は目を閉じた。
そして。
扉の前で一度、深く息を吸う。
胸の奥がまだざわついている。
それでも、伊織はノブに手をかけた。
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ゆっくりと扉を開けると、白い光に照らされた病室の空気が、ひんやりと肌に触れた。
機械の電子音が、規則正しく響いている。
その音が、妙に大きく感じられた。
ベッドの上で、晴子は目を閉じていた。
頬は少しこけ、呼吸は浅い。
だが、苦しそうではない。
ただ、静かに眠っているように見えた。
伊織は、足を一歩踏み入れた。
その瞬間、晴子のまぶたがゆっくりと動いた。
「……いおり……?」
かすれた声だった。
驚きと、戸惑いと、信じられないという感情が混ざっている。
伊織は、言葉が出なかった。
喉が固く閉じてしまったようだった。
晴子は、弱々しく微笑んだ。
その笑みは、昔と変わらない形をしていた。
「来てくれたのね」
伊織は、ようやく声を絞り出した。
「ああ」
それだけだった。
それ以上の言葉が見つからなかった。
晴子は、ゆっくりと視線を伊織に向けた。
その目には、責める色も、恨む色もなかった。
ただ、長い時間を経た人間だけが持つ、静かな諦念と、どこかの優しさがあった。
「仁が、連絡してくれたのね」
「そうだ」
「ごめんね。こんなときだけ」
「いい」
伊織は、短く言った。
その声は、少し震えていた。
晴子は、しばらく伊織の顔を見つめていた。
何かを探すように。
何かを確かめるように。
そして、ぽつりとつぶやいた。
「元気そうで、よかった」
胸の奥が、静かに痛んだ。
その言葉は、責任でも、未練でもない。
ただ、かつて家族だった人間としての、素朴な気持ちだった。
伊織は、ベッドのそばまで歩み寄った。
椅子に座ると、晴子は少し安心したように目を細めた。
「再婚、したんだって?」
「仁から聞いたのか?」
「…授賞式のスピーチ、見たから…」
「そうか」
「仁は、秘密にしてたみたいね」
男同士の秘密だった。
仁は約束を守っていた。
晴子は、微笑んだ。
「よかった。あなた、幸せそうだったから」
その言葉に、伊織は返事ができなかった。
喉の奥が熱くなり、言葉が形にならない。
晴子は、ゆっくりと目を閉じた。
まるで、安心したように。
「ありがとう。来てくれて」
伊織は、しばらくその言葉を受け止められなかった。
ただ、椅子に座ったまま、晴子の呼吸の音を聞いていた。
仁は、扉の外で静かに待っている。
急かさない。
見守るだけだ。
病室の空気は、静かで、重くて、どこか優しかった。
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病室の扉を静かに閉めると、廊下の空気がひんやりと肌に触れた。
さっきまで晴子の呼吸音を聞いていた耳が、急に静寂に放り出される。
仁は、少し離れた壁にもたれていた。
腕を組んだまま、俯いている。
伊織が出てきたのに気づくと、ゆっくり顔を上げた。
「……どうだった?」
「……落ち着いてたよ。思ったより、ずっと」
それだけ言うと、仁は小さくうなずいた。
「うん。さっきより、だいぶ楽そうだった」
二人の間に、短い沈黙が落ちる。
廊下の遠くで、ナースコールの電子音が鳴った。
仁が、ぽつりとつぶやいた。
「お父さん。来てくれて、ありがとう」
伊織は、少し驚いたように仁を見た。
「なんで、お前が礼を言うんだ」
「だって」
仁は言葉を探し、視線を床に落とした。
「お母さん、ずっと気にしてたから。お父さんのこと」
胸が、静かに痛んだ。
「……そうか」
「うん。離婚してからも、たまに話してたよ。元気にしてるかなって」
返す言葉を持たなかった。
晴子のあの弱々しい笑みが、胸の奥で揺れ続けている。
仁は、続けた。
「お父さんが来たって言ったら…すごく安心した顔してた」
その言葉は、伊織の心にゆっくりと沈んでいった。
しばらくして、仁がふっと息を吐いた。
「俺さ、ずっと迷ってたんだよ。お父さんに連絡していいのかどうか」
「なんで迷うんだ」
「だってお父さんにはもう、新しい生活があるでしょ。絵里奈さんもいるし。余計なことしたくなかった」
伊織は、ゆっくりと首を振った。
「余計なんかじゃない。お前が連絡してくれて、よかった」
仁は、驚いたように目を見開いた。
その表情は、子どもの頃の面影を少しだけ残していた。
「そう言ってくれると、助かる」
伊織は、壁にもたれ、深く息を吐いた。
「お前も大変だったな」
仁は、少し笑った。
疲れた笑いだったが、どこか誇らしげでもあった。
「まあね。でも、俺たちでなんとかやってるよ。 お父さんがいなくても」
その言葉に、伊織の胸が一瞬だけ締めつけられた。
だが、仁は続けた。
「でもいなくてもやれるけど、いてくれたら、もっとよかったとは思うよ」
それは責める言葉ではなかった。
ただ、事実を静かに置いただけの声だった。
目を閉じた。
胸の奥に、言葉にならないものが溜まっていく。
「すまなかった」
その言葉を、今ようやく言えるようになった。
仁は、首を横に振った。
「謝らなくていいよ」
「そうだな」
「とりあえず、今日は来てくれてよかったよ」
二人の間に、静かな空気が流れた。
重くはない。どこか、温度のある沈黙だった。
伊織は、仁に背中を向けた。
「帰るの?」
「ああ」
「また何かあったら連絡する」
「そうしてくれ」
それだけを言い、伊織は歩き出した。
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病院の受付は、夜の時間帯特有の静けさに包まれていた。
照明は少し落とされ、窓口には事務員が一人だけ座っている。
伊織は、ゆっくりとカウンターに近づいた。
「すみません」
事務員が顔を上げる。
「はい、どうされましたか?」
伊織は、少しだけ息を整えてから言った。
「先ほど入院した成田晴子という者の、入院費用について伺いたいんですが」
事務員はパソコンを操作し、画面を確認する。
「成田晴子さん。はい、こちらですね。まだ入院されたばかりなので、詳細な費用は確定しておりませんが、ご家族の方でしょうか?」
伊織は、一瞬だけ言葉に詰まった。
「元、家族です」
事務員は驚いた様子も見せず、淡々と頷いた。
「では、どういったご用件でしょう?」
「今回の入院にかかる費用をすべて、私が負担したいんです」
事務員の手が止まった。
「すべて、ですか?」
「はい。保険適用後の自己負担分も、差額ベッド代も、追加の検査費用も全部、こちらに請求してください」
事務員は慎重に言葉を選ぶように、少しだけ声を落とした。
「ご本人やご家族の方には……?」
「伝えなくて結構です」
その言葉は、驚くほど静かだった。
決意というより、長い時間をかけて沈殿した責任のような響きがあった。
事務員は、しばらく伊織の顔を見つめ、それから深く頷いた。
「承知しました。では、こちらにご署名をお願いします」
差し出された書類に、伊織は迷いなく名前を書いた。
ペン先が紙を滑る音だけが、受付の空気に響く。
署名を終えると、事務員が丁寧に書類を受け取った。
「ご対応、ありがとうございます。費用が確定次第、こちらにご連絡いたします」
「お願いします」
伊織は軽く頭を下げ、受付を離れた。
自動ドアが開くと、夜の冷たい空気が頬を撫でた。
駐車場の向こうに広がる暗い空を見上げる。
誰に知られる必要もない。
誰に褒められることでもない。
ただ、今の自分がやるべきことをやっただけだ。
ポケットの中でスマホが震えた。
絵里奈からのメッセージだ。
家に着いたよ。ゆっくり帰ってきてね。
伊織は、少しだけ目を閉じた。
今から帰る。
そう打ち込み、送信した。
夜風の中、伊織は車へ向かって歩き出した。
過去と現在の境界線を、静かに踏みしめながら。




