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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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62/107

62.「行かない理由に、私を使わないで」――前妻の緊急入院。氷の薔薇(絵里奈)の覚悟と、銀狼が向き合うべき過去。

新婚旅行から数か月が経過したある夜。


伊伊織のスマホが鳴った。

平日は毎日、17時にアラームを設定している。

一日の区切りをつけるための、小さな合図だ。


PCから離れ、玄関へ向かう。

仕事部屋を出て、隣の絵里奈の玄関の鍵を開ける。

今日は帰りが遅くなるかも、と少し前に絵里奈からラインが届いていた。


それでも、バスタブの清掃だけは先に済ませておきたかった。

彼女が帰る時間に関わらず、やるべきことはやっておきたい。

そのほうが、心が落ち着く。


電話が鳴る。着信音だ。

画面を見ると、「仁」。

普段、電話など滅多にかけてこない。


「もしもし」

「あ、もしもし、お父さん?」

「ああ、どうした?」

仁が慌てた様子でまくしたてる。

「晴子が入院?」

伊織の前の妻。

病気がちなのは、離婚前からだった。

「うん。救急で運ばれて、それで、今は落ち着いてるらしいけど」


また沈黙。

仁は言葉を探している。伊織は、受け止める準備ができていない。

「あの、一応、連絡しておきべきかなと思って」

「分かった。すまない」


元の家族の中で、伊織と連絡を取り合っているのは、仁だけだ。


「…なあ、仁。俺は、行ったほうがいいのか?」


今、病院には、末娘が付き添っているとのことだ。

次男は今、向かっているらしい。


「いや、まあ、とりあえず連絡だけでも、さ」

少し間をおいて、伊織は言った。


「病院はどこだ?」

「大山市民病院。俺も今、向かってる」

「分かった、なんかあったらまた連絡してくれ」

「お父さん、来るの?」

「…いや、分からない」


突然の連絡で、自分の気が動転している。

一度、落ち着きたかった。


「じゃあ、また今度はラインするね」

「ああ、そうしてくれ」


通話が切れた。


バスタブについたままだった洗剤をシャワーで洗い流す。

清掃を終わらせると、伊織は、絵里奈にラインを入れた。


お互いに隠し事はしない。


絵里奈と結婚してから、一貫してそれは守っている。


仁から連絡が来たことを含めて、今の状況を簡単に入力して送信した。

それから、再び仕事部屋に戻った。

スマホが鳴る。絵里奈からのラインだ。


行ってくれば?

いや、でも。

私のこと気にしてる?

それは、そうだけど。


スマホを握ったまま、伊織はしばらく動けなかった。

行くべきなのか。

行かないほうがいいのか。

どちらを選んでも、何かを裏切るような気がした。

絵里奈からさらにメッセージが届く。


ねえ。落ち着かないでしょ?


でも、行ったら、曖昧になる気がして。


行くことが、戻ること、じゃないでしょ。


しばらく返事が打てなかった。

絵里奈は、伊織が言葉を探しているときの沈黙をいつも急かさない。


数分後、またメッセージが届く。



それにね。あなたが行かない理由に私を使ってほしくないの。

ごめん。そうだね。


胸の奥が、少しだけ痛んだ。

伊織はスマホを置き、椅子の背にもたれた。


天井を見上げる。


仁の慌てた声、晴子の名前、病院。


過去と現在が、急に同じ部屋に押し込まれたような息苦しさ。



そのとき、再びスマホが震えた。

絵里奈からではない。

仁だ。


お父さん。今、先生の説明が終わった。ちょっと話したいことがあるんだけど。


伊織は、短く返した。


分かった。今から向かう。


送信ボタンを押したあと、しばらく動けなかった。

だが、立ち上がると、玄関へ向かう足取りは思ったよりも迷いがなかった。


靴を履きながら、絵里奈に一言だけ送る。


行ってくる


数秒後、返事が来た。


うん。気をつけて。


その短い言葉に、伊織はようやく息を吸い込めた。


玄関の扉を開けると、夜の空気がひんやりと頬を撫でた。

過去へ向かうのではない。

今の自分として、向き合いに行くのだ。


----


大山市民病院の駐車場は、夜の冷気が張りつめていた。

自動ドアが開くと、消毒液の匂いが胸の奥にまで入り込んでくる。


エレベーターを降りると、廊下の端に仁が立っていた。

手持ち無沙汰にスマホを握りしめ、落ち着かない様子で。


「お父さん」


仁がこちらに気づき、少し驚いたように目を見開いた。


「来たんだ」


「……ああ」


それ以上の言葉が出てこない。

仁も同じだった。少しして、仁が口を開いた。


「さっき、先生の説明があって……」

「容体は?」


仁は短く息を吸い、言葉を選ぶように続けた。


「急性の心不全。でも、処置が早かったから、今は安定してる。意識もあるし、話もできるって」


伊織は、胸の奥が縮むのを感じた。

安堵なのか、後悔なのか、自分でも分からない。


「……そうか」

「うん」


仁は視線を落とし、靴の先を見つめた。


「お父さんに連絡するか、ちょっと迷ったんだけど」

「いや。連絡してくれて、ありがとう」


その言葉を言うまでに、数秒の沈黙が必要だった。


仁は、ほっとしたように肩を落とした。


「今、妹が中にいる。お父さん、会う……?」


伊織は、答えられなかった。

会うべきなのか。

会って、何を言うのか。

何を言えるのか。


「……少し、時間をくれ」

「うん。分かった」


仁はそれ以上急かさなかった。

それが、逆に胸に刺さった。



ナースステーションの前を通り過ぎると、病室の扉が半開きになっていた。

中から、機械の規則的な電子音が聞こえる。

仁が小声で言う。


「さっきまで苦しそうだったけど、今は落ち着いてる。先生が言うには、しばらくは安静にしてれば大丈夫だって」

「……そうか」

「でも、またいつ急に悪くなるか分からないって」


その言葉に、伊織の胸がわずかに痛んだ。

離婚して何年も経つのに、晴子の体調の話を聞くと、どうしても昔の記憶が呼び起こされる。


病気がちで、いつも無理をしていた。

それを支えきれなかった自分。

支えられなかった夫婦。


仁が、ふと伊織の横顔を見た。


「……お父さん、無理しなくていいからね」


その言葉は、優しさなのに、どこか突き刺さる。


「無理なんかしてない」


そう答えた声は、自分でも驚くほど硬かった。


病院の廊下のベンチに座り、伊織はスマホを取り出した。

絵里奈から、既読のついていないメッセージが一つ届いている。


着いたら教えてね。


それだけの短い文なのに、その裏にある気遣いが、胸にじんわりと広がる。


伊織は、ゆっくりと返信を打った。


今、着いて、仁と話した。


送信してから、しばらく画面を見つめる。

数分後、返信が来た。


よかった。帰ってきたら話そう。

分かった。ありがとう。


伊織は、スマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。


絵里奈は、ただそっと受け止めてくれていた。

自分が抱えている迷いや罪悪感を。


----


窓に映る自分の顔を、絵里奈はぼんやりと見つめていた。

仕事帰りの混雑はもう過ぎていて、支店の前の道路を行き交う人や車はまばらだった。


伊織からの「行ってくる」というメッセージ。

短い言葉なのに、その裏にある迷いと覚悟が、手に取るように分かった。


胸の奥が、静かにざわつく。


嫉妬ではない。不安でもない。ただ痛みに近い。


あの人の過去に、私は触れられない部分がある。


それは結婚前から分かっていたことだ。

前の妻との長い年月、子どもたちとの歴史、積み重ねてきた生活。

自分が入り込めない領域があるのは当然だ。


でも、こうして急に過去が呼び出される瞬間に直面すると、胸の奥が少しだけきゅっと縮む。


行ってほしくないと思わなかったわけじゃない。

あの人は、過去と再び向き合おうとしてる。


でも、もし…

いや、大丈夫。

このまま帰ってこなかったら…

そんなこと絶対ない。

分かるわけがない。

そんなことない。


様々な妄想が頭を駆け巡る。

PCの画面を見ながら、振り払うように、Enterキーを押す。

業務を終えて、帰り支度を整える。

支店には、すでに絵里奈しかいなかった。

電気を消し、セキュリティーをかける。


あの人は、ちゃんと帰ってくる。


そう自分に言い聞かせながら、絵里奈は家へ向かって歩き出した。

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