62.「行かない理由に、私を使わないで」――前妻の緊急入院。氷の薔薇(絵里奈)の覚悟と、銀狼が向き合うべき過去。
新婚旅行から数か月が経過したある夜。
伊伊織のスマホが鳴った。
平日は毎日、17時にアラームを設定している。
一日の区切りをつけるための、小さな合図だ。
PCから離れ、玄関へ向かう。
仕事部屋を出て、隣の絵里奈の玄関の鍵を開ける。
今日は帰りが遅くなるかも、と少し前に絵里奈からラインが届いていた。
それでも、バスタブの清掃だけは先に済ませておきたかった。
彼女が帰る時間に関わらず、やるべきことはやっておきたい。
そのほうが、心が落ち着く。
電話が鳴る。着信音だ。
画面を見ると、「仁」。
普段、電話など滅多にかけてこない。
「もしもし」
「あ、もしもし、お父さん?」
「ああ、どうした?」
仁が慌てた様子でまくしたてる。
「晴子が入院?」
伊織の前の妻。
病気がちなのは、離婚前からだった。
「うん。救急で運ばれて、それで、今は落ち着いてるらしいけど」
また沈黙。
仁は言葉を探している。伊織は、受け止める準備ができていない。
「あの、一応、連絡しておきべきかなと思って」
「分かった。すまない」
元の家族の中で、伊織と連絡を取り合っているのは、仁だけだ。
「…なあ、仁。俺は、行ったほうがいいのか?」
今、病院には、末娘が付き添っているとのことだ。
次男は今、向かっているらしい。
「いや、まあ、とりあえず連絡だけでも、さ」
少し間をおいて、伊織は言った。
「病院はどこだ?」
「大山市民病院。俺も今、向かってる」
「分かった、なんかあったらまた連絡してくれ」
「お父さん、来るの?」
「…いや、分からない」
突然の連絡で、自分の気が動転している。
一度、落ち着きたかった。
「じゃあ、また今度はラインするね」
「ああ、そうしてくれ」
通話が切れた。
バスタブについたままだった洗剤をシャワーで洗い流す。
清掃を終わらせると、伊織は、絵里奈にラインを入れた。
お互いに隠し事はしない。
絵里奈と結婚してから、一貫してそれは守っている。
仁から連絡が来たことを含めて、今の状況を簡単に入力して送信した。
それから、再び仕事部屋に戻った。
スマホが鳴る。絵里奈からのラインだ。
行ってくれば?
いや、でも。
私のこと気にしてる?
それは、そうだけど。
スマホを握ったまま、伊織はしばらく動けなかった。
行くべきなのか。
行かないほうがいいのか。
どちらを選んでも、何かを裏切るような気がした。
絵里奈からさらにメッセージが届く。
ねえ。落ち着かないでしょ?
でも、行ったら、曖昧になる気がして。
行くことが、戻ること、じゃないでしょ。
しばらく返事が打てなかった。
絵里奈は、伊織が言葉を探しているときの沈黙をいつも急かさない。
数分後、またメッセージが届く。
それにね。あなたが行かない理由に私を使ってほしくないの。
ごめん。そうだね。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
伊織はスマホを置き、椅子の背にもたれた。
天井を見上げる。
仁の慌てた声、晴子の名前、病院。
過去と現在が、急に同じ部屋に押し込まれたような息苦しさ。
そのとき、再びスマホが震えた。
絵里奈からではない。
仁だ。
お父さん。今、先生の説明が終わった。ちょっと話したいことがあるんだけど。
伊織は、短く返した。
分かった。今から向かう。
送信ボタンを押したあと、しばらく動けなかった。
だが、立ち上がると、玄関へ向かう足取りは思ったよりも迷いがなかった。
靴を履きながら、絵里奈に一言だけ送る。
行ってくる
数秒後、返事が来た。
うん。気をつけて。
その短い言葉に、伊織はようやく息を吸い込めた。
玄関の扉を開けると、夜の空気がひんやりと頬を撫でた。
過去へ向かうのではない。
今の自分として、向き合いに行くのだ。
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大山市民病院の駐車場は、夜の冷気が張りつめていた。
自動ドアが開くと、消毒液の匂いが胸の奥にまで入り込んでくる。
エレベーターを降りると、廊下の端に仁が立っていた。
手持ち無沙汰にスマホを握りしめ、落ち着かない様子で。
「お父さん」
仁がこちらに気づき、少し驚いたように目を見開いた。
「来たんだ」
「……ああ」
それ以上の言葉が出てこない。
仁も同じだった。少しして、仁が口を開いた。
「さっき、先生の説明があって……」
「容体は?」
仁は短く息を吸い、言葉を選ぶように続けた。
「急性の心不全。でも、処置が早かったから、今は安定してる。意識もあるし、話もできるって」
伊織は、胸の奥が縮むのを感じた。
安堵なのか、後悔なのか、自分でも分からない。
「……そうか」
「うん」
仁は視線を落とし、靴の先を見つめた。
「お父さんに連絡するか、ちょっと迷ったんだけど」
「いや。連絡してくれて、ありがとう」
その言葉を言うまでに、数秒の沈黙が必要だった。
仁は、ほっとしたように肩を落とした。
「今、妹が中にいる。お父さん、会う……?」
伊織は、答えられなかった。
会うべきなのか。
会って、何を言うのか。
何を言えるのか。
「……少し、時間をくれ」
「うん。分かった」
仁はそれ以上急かさなかった。
それが、逆に胸に刺さった。
ナースステーションの前を通り過ぎると、病室の扉が半開きになっていた。
中から、機械の規則的な電子音が聞こえる。
仁が小声で言う。
「さっきまで苦しそうだったけど、今は落ち着いてる。先生が言うには、しばらくは安静にしてれば大丈夫だって」
「……そうか」
「でも、またいつ急に悪くなるか分からないって」
その言葉に、伊織の胸がわずかに痛んだ。
離婚して何年も経つのに、晴子の体調の話を聞くと、どうしても昔の記憶が呼び起こされる。
病気がちで、いつも無理をしていた。
それを支えきれなかった自分。
支えられなかった夫婦。
仁が、ふと伊織の横顔を見た。
「……お父さん、無理しなくていいからね」
その言葉は、優しさなのに、どこか突き刺さる。
「無理なんかしてない」
そう答えた声は、自分でも驚くほど硬かった。
病院の廊下のベンチに座り、伊織はスマホを取り出した。
絵里奈から、既読のついていないメッセージが一つ届いている。
着いたら教えてね。
それだけの短い文なのに、その裏にある気遣いが、胸にじんわりと広がる。
伊織は、ゆっくりと返信を打った。
今、着いて、仁と話した。
送信してから、しばらく画面を見つめる。
数分後、返信が来た。
よかった。帰ってきたら話そう。
分かった。ありがとう。
伊織は、スマホを握りしめたまま、しばらく動けなかった。
絵里奈は、ただそっと受け止めてくれていた。
自分が抱えている迷いや罪悪感を。
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窓に映る自分の顔を、絵里奈はぼんやりと見つめていた。
仕事帰りの混雑はもう過ぎていて、支店の前の道路を行き交う人や車はまばらだった。
伊織からの「行ってくる」というメッセージ。
短い言葉なのに、その裏にある迷いと覚悟が、手に取るように分かった。
胸の奥が、静かにざわつく。
嫉妬ではない。不安でもない。ただ痛みに近い。
あの人の過去に、私は触れられない部分がある。
それは結婚前から分かっていたことだ。
前の妻との長い年月、子どもたちとの歴史、積み重ねてきた生活。
自分が入り込めない領域があるのは当然だ。
でも、こうして急に過去が呼び出される瞬間に直面すると、胸の奥が少しだけきゅっと縮む。
行ってほしくないと思わなかったわけじゃない。
あの人は、過去と再び向き合おうとしてる。
でも、もし…
いや、大丈夫。
このまま帰ってこなかったら…
そんなこと絶対ない。
分かるわけがない。
そんなことない。
様々な妄想が頭を駆け巡る。
PCの画面を見ながら、振り払うように、Enterキーを押す。
業務を終えて、帰り支度を整える。
支店には、すでに絵里奈しかいなかった。
電気を消し、セキュリティーをかける。
あの人は、ちゃんと帰ってくる。
そう自分に言い聞かせながら、絵里奈は家へ向かって歩き出した。




