61.「逃げたくない」――午前4時の決意。影の中の20年を終わらせる、篠崎(海斗)の宣戦布告。
午前4時。
伊織が目を覚ますと、ベッドに一人だった。
身を起こして、絵里奈を探す。
絵里奈は、窓辺に背中を寄りかかるようにして、窓から明け方の景色をぼんやり眺めている。
近くにあったバスローブを羽織り、近づく。
「…絵里奈」
「あ、起きた?…おはよう」
「おはよう」
窓辺に座っている絵里奈に寄り添うようにして座り、軽く口づけをした。
羽織っただけのブラウスから覗く黒のキャミソールがなまめかしい。
絵里奈の首筋にも、顔を近づけて、口づけをする。
「…もう」
「…まだ、余韻が残ってる」
フィレンツェの朝は、いつも昨日の余韻を残していた。
ーー
同じ頃、篠崎は、ホテルの一室にいた。
昨日の夜から優子と会っていた。
40を過ぎてから、やっと男になった。
優子は自分より年が上で、大学生の息子がいる。
その身体は、挑発的で、官能的だった。
篠崎は、自分でも驚くほど深く優子に引き寄せられていった。
「…今頃、何してんのかな?」
優子が篠崎の隣でつぶやく。
二人でベッドに横になっていた。
「何がですか?」
「絵里奈達」
「ああ、確か新婚旅行でしたね」
「いいなあ…新婚旅行…」
「フィレンツェ行くとか言ってましたよね?」
「フィレンツェ…なんて素敵…」
「さすが、伊織さんですよね、おしゃれの仕方がこう洗練されているというか」
「あれは、全部絵里奈の手ほどきよ」
「でしょうね」
優子がスマホを見る。
「4時か…」
「優子さん、女性はみんな、あんな風に乱れるんですか?」
「え?…ちょっとなにいってんのよ、恥ずかしい」
「自分が見ていたのは、その、いわゆる二次元ですから」
「うーんとね、なんといったらいいのか」
40を過ぎてから経験する男には初めて出会った。
そして、その男の初体験の相手になろうとは思いもしなかった。
これからいろいろ興味が湧くに違いない。
「みんなってわけじゃないと思うわよ」
「…伊織さん達も、こんな風にしてるんですかね?」
「そりゃ、そうでしょ…夫婦仲、すごくいいしね」
木崎と関係を持ったのは、自分が若い頃だった。
お互い軽い感じで、お遊び程度の付き合いだったのを覚えている。
相手は既婚者で、不倫関係になるのだ。
木崎の子を宿した時は、会社を辞めて、一人で育てる覚悟だった。
そう木崎に伝えると、会社はやめるなと言われた。
優子が産休が取れない以上、体調不良という名目で長期休暇を取らせるよう、木崎は人事に手を回した。
それからは、人目を避けるようにして、木崎は優子のところに来た。
それから木崎の女遊びは、度を過ぎることは無かった。
優子との間の子供の存在が、効いたのかもしれなかった。
その時の子供は今は大学生になっている。
「木崎さんには、僕から言いますよ」
「え?」
「あれから、いろいろ考えましたが、別に隠す必要が無いなと思いました」
「…そう」
篠崎はそう言いながら、二つのふくらみに手を伸ばしてきた。
「…まだ元気なの?海斗」
優子が尋ねると、ええ、と言った。
そのまま、海斗と、優子のあいだに、ふっと静けさが落ちた。
触れられた場所の温度を確かめるように、優子は小さく息をつく。
海斗は、まだ慣れない手つきのまま、彼女の反応を探っていた。
「……本当に、言うつもりなの?」
優子が天井を見たままつぶやく。
「はい。逃げたくないんです。どこかで、ずっと後ろめたかったから」
優子はゆっくりと横を向き、海斗の顔を見た。
その目には、驚きと、少しの戸惑いと、言葉にできない安堵が混じっていた。
「あなたって……変なところで真面目よね」
海斗は照れたように笑い、優子の手をそっと握った。
若い頃から木崎と過ごした時間は、いつも影の中だった。
名前を呼ばれるのも、触れられるのも、誰にも知られてはいけない関係のまま。
子どもを宿したときでさえ、光の下には出られなかった。
「……選ばれるって、どういう気分なんだろうね」
優子は笑ったが、その笑みはどこか頼りなかった。
彼女の過去の重さを、ようやく少しだけ理解した気がした。
海斗は、言葉を探すように息を吸った。
きらめく景色を、拾い集めるようにして、窓の外を眺めていた。




