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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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60/107

60.「夢の続きが見たい」――帰宅を拒み、都心のホテルへ。フィレンツェの余韻を熱に変える、旅の終わりの再点灯(Relight)。

マイバッハの後部座席に乗り込むと、外の光がフロントガラス越しに淡く差し込んだ。

成田の午後は、フィレンツェの朝とはまるで違う白さだった。


エンジンが静かにかかり、車が滑るように動き出す。

空港の建物がゆっくりと後ろへ流れていく。


「帰ってきたんだね」

絵里奈が窓の外を見ながら言った。


「うん。まだ旅の途中みたいだ」

伊織はそう返し、自分でもその言葉が少し意外だった。


「わかる。なんか、まだ終わりじゃない感じ」

「終わりじゃないよ」

「そうね」


車内には、旅の疲れと、言葉にしきれない余韻が静かに満ちていた。

高速に乗ると、景色は単調になり、二人の間に落ち着いた沈黙が流れた。

絵里奈はシートに体を預け、目を閉じる。


石畳の音。

朝の光。

アルノ川の匂い。


「ねえ」

目を開けずに、絵里奈が言った。

「今日は、帰る前に、どこか寄らない?」

「どこか?」

「うん。家に帰ってもいいんだけどさ」

「…そうだね」

「もう少しだけ、夢の続きが見たい」

目を開けると、日の光が眩しく感じられた。


夕方に差しかかる頃、都心のホテルについた。

ガラス張りのエントランスが、外の光を柔らかく反射している。

いつものように伊織が後部座席のドアを開ける。

ドアが開くと、外気がふわりと流れ込んだ。

フィレンツェの朝とも、成田の湿気とも違う、都会の夜の始まりの匂いだった。

絵里奈は、伊織の手を握りしめ、マイバッハから降りる。


「ここ、いいね」

「うん。静かそうだ」


ベルスタッフが荷物を受け取り、二人はロビーへ向かう。

天井の高い空間に、控えめなピアノの音が漂っていた。

チェックインを済ませ、エレベーターに乗り込む。

扉が閉まると、外の喧騒がすっと消えた。


上昇するわずかな振動の中で、絵里奈が小さくつぶやく。

「ここもいいところね」

「そうだね」

エレベーターの数字が静かに増えていく。

その音が、二人の鼓動をゆっくりと重ねていくようだった。


----


部屋に入ると、照明が自動でふわりと灯った。

柔らかい光が、白いシーツと窓際のソファを静かに照らしている。

絵里奈は、ゆっくりと部屋を見渡した。

まるで、ここだけ時間の流れが違うようだった。


「きれい」

「うん。落ち着くね」


伊織がスーツケースを壁際に置くと、絵里奈はそっと近づいてきた。


「ねえ」

「ん」

「手、貸して」


その言い方があまりにも自然で、

伊織は何も考えずに手を差し出した。

絵里奈はその手を両手で包み込むように握った。

指先が触れた瞬間、旅の間ずっと胸の奥に溜まっていたものが、

静かにほどけていくようだった。


「帰ってきても、こうして触れたくなるんだね」

「俺もだよ」


絵里奈は少しだけ笑い、そのまま伊織の胸元に額を寄せた。


「フィレンツェでも思ってたの。 あなたの隣にいると、なんか安心しすぎて、甘えたくなるって」

「甘えていいよ」

「ほんとに?」

「うん」

絵里奈は胸元に顔を寄せたまま、小さく息を吸った。

「…伊織の匂いだ」

「匂い?」

「うん。旅の間ずっと、これが落ち着いたの」


伊織は少し照れたように笑い、絵里奈の背にそっと手を回した。

その動きはゆっくりで、ためらいがなくて、まるで帰る場所を確かめるようだった。


「ねえ」

「ん」

「今日、帰りたくない」

「帰らなくていいよ」

「よかった」


絵里奈は顔を上げ、伊織の目をまっすぐ見つめた。

言葉はいらない気がした。


----


唇を重ね合わせる。

伊織の背中に回した手に伝わる温度。

呼吸が、胸に伝わってくる。

絵里奈は伊織に背中を向ける。

しなやかな指先が曲線をたどってくる。

伊織の鼓動が背中ごしに伝わってきた。

掌に滲む汗が、胸をつたって、零れ落ちる。


二人の影が、ホテルの柔らかな光の中でゆっくりと重なっていく。

外の世界はもう遠く、ここには二人の呼吸だけが静かに満ちていった。

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