60.「夢の続きが見たい」――帰宅を拒み、都心のホテルへ。フィレンツェの余韻を熱に変える、旅の終わりの再点灯(Relight)。
マイバッハの後部座席に乗り込むと、外の光がフロントガラス越しに淡く差し込んだ。
成田の午後は、フィレンツェの朝とはまるで違う白さだった。
エンジンが静かにかかり、車が滑るように動き出す。
空港の建物がゆっくりと後ろへ流れていく。
「帰ってきたんだね」
絵里奈が窓の外を見ながら言った。
「うん。まだ旅の途中みたいだ」
伊織はそう返し、自分でもその言葉が少し意外だった。
「わかる。なんか、まだ終わりじゃない感じ」
「終わりじゃないよ」
「そうね」
車内には、旅の疲れと、言葉にしきれない余韻が静かに満ちていた。
高速に乗ると、景色は単調になり、二人の間に落ち着いた沈黙が流れた。
絵里奈はシートに体を預け、目を閉じる。
石畳の音。
朝の光。
アルノ川の匂い。
「ねえ」
目を開けずに、絵里奈が言った。
「今日は、帰る前に、どこか寄らない?」
「どこか?」
「うん。家に帰ってもいいんだけどさ」
「…そうだね」
「もう少しだけ、夢の続きが見たい」
目を開けると、日の光が眩しく感じられた。
夕方に差しかかる頃、都心のホテルについた。
ガラス張りのエントランスが、外の光を柔らかく反射している。
いつものように伊織が後部座席のドアを開ける。
ドアが開くと、外気がふわりと流れ込んだ。
フィレンツェの朝とも、成田の湿気とも違う、都会の夜の始まりの匂いだった。
絵里奈は、伊織の手を握りしめ、マイバッハから降りる。
「ここ、いいね」
「うん。静かそうだ」
ベルスタッフが荷物を受け取り、二人はロビーへ向かう。
天井の高い空間に、控えめなピアノの音が漂っていた。
チェックインを済ませ、エレベーターに乗り込む。
扉が閉まると、外の喧騒がすっと消えた。
上昇するわずかな振動の中で、絵里奈が小さくつぶやく。
「ここもいいところね」
「そうだね」
エレベーターの数字が静かに増えていく。
その音が、二人の鼓動をゆっくりと重ねていくようだった。
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部屋に入ると、照明が自動でふわりと灯った。
柔らかい光が、白いシーツと窓際のソファを静かに照らしている。
絵里奈は、ゆっくりと部屋を見渡した。
まるで、ここだけ時間の流れが違うようだった。
「きれい」
「うん。落ち着くね」
伊織がスーツケースを壁際に置くと、絵里奈はそっと近づいてきた。
「ねえ」
「ん」
「手、貸して」
その言い方があまりにも自然で、
伊織は何も考えずに手を差し出した。
絵里奈はその手を両手で包み込むように握った。
指先が触れた瞬間、旅の間ずっと胸の奥に溜まっていたものが、
静かにほどけていくようだった。
「帰ってきても、こうして触れたくなるんだね」
「俺もだよ」
絵里奈は少しだけ笑い、そのまま伊織の胸元に額を寄せた。
「フィレンツェでも思ってたの。 あなたの隣にいると、なんか安心しすぎて、甘えたくなるって」
「甘えていいよ」
「ほんとに?」
「うん」
絵里奈は胸元に顔を寄せたまま、小さく息を吸った。
「…伊織の匂いだ」
「匂い?」
「うん。旅の間ずっと、これが落ち着いたの」
伊織は少し照れたように笑い、絵里奈の背にそっと手を回した。
その動きはゆっくりで、ためらいがなくて、まるで帰る場所を確かめるようだった。
「ねえ」
「ん」
「今日、帰りたくない」
「帰らなくていいよ」
「よかった」
絵里奈は顔を上げ、伊織の目をまっすぐ見つめた。
言葉はいらない気がした。
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唇を重ね合わせる。
伊織の背中に回した手に伝わる温度。
呼吸が、胸に伝わってくる。
絵里奈は伊織に背中を向ける。
しなやかな指先が曲線をたどってくる。
伊織の鼓動が背中ごしに伝わってきた。
掌に滲む汗が、胸をつたって、零れ落ちる。
二人の影が、ホテルの柔らかな光の中でゆっくりと重なっていく。
外の世界はもう遠く、ここには二人の呼吸だけが静かに満ちていった。




