59.「私が教えてあげる」――40歳の狂犬・篠崎、女傑・優子の腕の中で知った“初めての現実”。
片桐が食堂を出ていくのを見届けると、優子はそっと息を吐いた。
その小さな仕草だけで、張り詰めていたものがわずかに緩む。
「……来てたんですね、常務」
背後から静かな声がして、中村は振り返る。
篠崎が、トレイを片手に戻ってきていた。
表情はいつも通りだが、目だけがわずかに鋭い。
「驚いたわ。食堂に来るなんて」
「優子さんに何か言っていきました?」
「最近変わったことはないかって。それだけよ」
「それだけ、ですか」
篠崎は席に腰を下ろし、声を落とした。
「僕たちのこと、気づかれたと思います?」
「木崎には、別れようって言ったから」
「僕のことは、言ってないんですか?」
「ええ」
「じゃあ、探りですね。木崎専務からの」
ーー
創立記念パーティー会場で思いっきり優子に絡まれた。
その時、慌てて席を離れたが、優子はついてきた。
これはまずいとは思ったが、廊下の奥で、優子が抱きついてきたのだ。
相当酔いが回っていたのだろう。
抱き着かれたときに、どうしていいか分からずに、思わずキスをしてしまった。
その感触は、女慣れしていない篠崎には刺激的過ぎた。
「…んん」
「優子さん…戻りましょう」
そう言った篠崎の頬に、優子は口づけをしてくる。
「ほんと…可愛い」
「ほら…」
あとで彼女の扱いを水原に聞くしかなかった。
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ホテルのロビーに出ると、夜の空気が冷たい。
優子は腕を絡めたまま、ふらつく足取りで篠崎の肩に体重を預けている。
創立記念パーティーの後、二人は同じタクシーに乗った。
酔いが回り切った優子を送っていくためだった。
「ごめんね。ちょっと飲みすぎたみたい」
「い、いえ…その…大丈夫ですか」
篠崎は、腕に触れる優子の体温にどうしていいか分からず、
視線を泳がせながら歩いていた。
女慣れしていない彼にとって、この距離はあまりにも近すぎる。
「ねえ、篠崎君」
「はい」
「さっきの、可愛いって言ったの、覚えてる?」
「はい」
「顔、赤いよ?」
「そうですか?」
「ふふ。ほんとに可愛い」
優子は笑いながら、彼のネクタイを指先で軽くつまんだ。
その仕草だけで、篠崎は呼吸を忘れそうになる。
ホテルの前には、ちょうど一台のタクシーが停まっていた。
「乗りましょうか」
「ええ…お願い」
優子は軽くつまずき、
篠崎は慌てて支えた。
「す、すみません……」
「いいのよ。助かるわ」
その言葉に、篠崎は胸の奥が熱くなる。
ドアが開き、二人は自然に、同じ後部座席へ乗り込んだ。
ドアが閉まる音が、外の喧騒を断ち切る。
車内の静けさと隣に座る優子の気配が、篠崎の鼓動をさらに速くした。
優子は、スマホを取り出しなにやら文字を打ち込んでいる。
「どちらまで?」
運転手が篠崎に聞いてきた。
「優子さん、家はどこですか?」
「あ、このままちょっと走ってもらっていい?」
少し酔いが醒めたのか、呂律はしっかりとしていた。
タクシーが走り出す。
「これでよしっと」
「優子さん、そういえば、帰ってきちゃってよかったんですか?」
「え?何が?」
「会場の後始末とか、そのいろいろ」
「ああ、大丈夫。課長残っているから」
「そうなんですね」
タクシーはホテルを出てから、大通りを走っている。
「これから、どこへ?」
「決まっているじゃない」
優子は、運転手に行き先を告げた。
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何故、こうなったかは分からない。
分からないまま、シティホテルの一室にいた。
タクシーをここに停めた優子に連れられてきたのだ。
ベッドに腰かけた優子に、そばに来てと言われた。
なんの用事かと、篠崎は思い、横に座った。
「へ?…なんの用事かって?」
「はい」
「…ぷ、あはははは」
優子が笑い転げている。
「篠崎君、面白い。女と二人きりでホテル入って、何の用ですか?ですって」
「え、変ですか?」
篠崎は、何か自分に関する重大な話があるのかと思っていた。
篠崎は、女に扱いなど得手ではなかった。
扱ったことのある女といえば、ゲームのキャラだけだ。
「ひょっとして、篠崎君…初めて?」
「何がですか?」
「…何がですかって、何がよ」
「え?…おっしゃっている意味が分かりません」
「…ある意味、すごい」
「はあ」
篠崎はますます混乱していた。
「セックス」
「…え?」
最初はなにを言っているのか全く理解できなかった。
「嘘…本当に、初めてなの?」
「…」
篠崎は、恥ずかしいやら、怒りやらが混じった感情を押し殺して黙っていた。
家、仕事、ゲーム、家、仕事、ゲーム。
その繰り返しの人生だった。
気が付けば40を過ぎていた。
風俗など行く気にもなれない。
もっぱら、二次元の女の子で、欲求は満たしていた。
「帰ります」
篠崎は、悲憤に満ちた表情で、ベッドから離れた。
「待って、篠崎君」
篠崎は、ドアの前で、立ち止まった。
「優子さん、僕は…」
振り返ると、そこには、一糸まとわぬ姿の優子がいた。
「…私が教えてあげるわ」
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それからの事を、篠崎は鮮明に覚えている。
優子の肌触り。色。髪の匂いや、酒の匂い。
優子が何かを取り出したとき、篠崎には最初はそれが何か分からなかった。
指先が布越しに触れた。優子の呼吸だけが近くにあった。
「こうするのよ」
「こ、こうですか?」
「そう、ゆっくりと…そう…」
篠崎は、優子に言われるがままだった。
ひとつになるという事が、どういうことか、分からなかった。
そして、あっという間だったのだ。
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「木崎専務には、僕から言いましょうか?」
「…うーん、わざわざ言う事も無いかなと思ってるんだけど」
「優子さんの相手が分かるまで、詮索してくると思いますが」
「そうかな?」
「前の水原さんの時もそうでしたし」
「ああ、そんなこともあったね」
優子は苦笑して、カップの中身を一口飲んだ。
どこか他人事のような声音だった。
「でも、今回は違うわ。もう、縛られるつもりはないもの」
その言葉に、篠崎は一瞬だけ視線を伏せる。
「専務は、自分の知らないところで物事が動くのを嫌います」
「知ってる。だからこそ、疲れたのよ」
優子はそう言って、肩をすくめる。
「……それに」
一拍置いて、優子は篠崎を見る。
「もう、誰の許可もいらないでしょう?」
その視線を受け止めながら、篠崎はゆっくり息を吸った。
「ええ。ただ、巻き込まれるのは、いつも周りです」
「心配してくれてるの?」
「もちろんですよ、優子さん」
「海斗…ありがとう」
そういうと、周りに見えないようにそっと篠崎の手を握った。
途端に、篠崎の顔が真っ赤になった。
「優子さん…」
「ウブなのね、まだ」
そういうと、優子は先に席を立った。
篠崎は、鼓動が落ち着くまで座っていた。




