58.「あなたと来たってこと」――成田に届くフィレンツェの余韻。マイバッハが待つ、新しい日常への帰還。
その日の朝のフィレンツェは、いつもより静かに感じられた。
窓の外の光は柔らかく、街全体がまだ眠っているようだった。
「終わっちゃうのね」
絵里奈はスーツケースのジッパーを閉め、小さく呟いた。
「また来よう」
「そうね」
伊織は荷物を持ち上げながら、そう返した。
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二人はホテルを出て、タクシーで空港へ向かった。
車窓から見える街並みは、来たときよりもずっと近く感じられた。
石畳、オレンジ色の屋根、朝の光を受けるアルノ川。
どれも、もう知っている景色になっていた。
タクシーが高速に乗ると、街がゆっくりと遠ざかっていく。
「またね」
絵里奈は窓から外を見ながらつぶやく。
伊織は、来よう、とだけ言った。
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フィレンツェ空港に到着すると、チェックインを済ませる。
搭乗口へ向かう途中、絵里奈はふと立ち止まった。
「……この匂い、好きだったな」
「匂い?」
「革と、石と、朝の空気が混ざった匂い」
「絵里奈らしい」
「あなたは?」
「俺は、絵里奈の横顔が一番印象に残ってる」
「横顔?」
「そう、横顔」
「なにそれ、ふふ」
二人は並んで歩き出した。
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離陸の振動が落ち着くと、絵里奈は窓の外を見た。
雲の上に出ると、フィレンツェの街はもう見えない。
「本当に帰るのね」
「ああ」
「見たものとか、感じたものとか、伊織の作品になるかな?」
「そうだな」
絵里奈は微笑んだ。
「また来よう」
「そうだな」
飛行機は静かに雲の上を進んでいく。
二人の間には、静かな満足が漂っていた。
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成田に降り立つと、湿った日本の空気がふわりと肌に触れた。
フィレンツェの乾いた朝とはまるで違う匂いだった。
帰ってきた。
伊織は、そう思った。
「着いたね」
絵里奈が伸びをしながら言う。
「うん、現実に戻った感じだね」
伊織は苦笑しつつ、頭上の荷物棚から二人の荷物を下ろした。
入国審査を抜け、到着ロビーへ出る。
人の流れとアナウンスの声が一気に押し寄せてくる。
旅の終わりを告げるような喧騒だった。
「駐車サービス、こっちだよね」
絵里奈が案内板を指さす。
「うん。預けたとき、すごく丁寧だった」
「ね。帰ってきたときに車がすぐ出てくるって、ちょっと贅沢だけど好き」
二人はエスカレーターを降り、ガラス張りの通路を歩いていく。
外の光は午後の白さで、旅の始まりとは違う落ち着いた明るさだった。
受付カウンターに近づくと、スタッフがすぐに気づいて軽く会釈をした。
「お帰りなさいませ。お車はすぐにお持ちいたします」
その言葉に、絵里奈は小さく息をついた。
旅の終わりを受け入れるような、でもどこか満たされた息だった。
「なんかさ」
「ん?」
「こういうところも、また来ようって思える理由になるよね」
「サービス?」
「ううん。あなたと来たってこと」
伊織は少し照れたように視線をそらした。
「じゃあ、また来よう」
「ええ」
ガラス越しに見えるマイバッハが、旅の終わりを告げているようだった。




