57.「また来よう」――サン・ミニアートの光とピスタチオのジェラート。旅の終わりに誓った再会の約束。
5日目の朝は、窓の外の光はいつもより柔らかく感じられた。
フィレンツェの冬の空気は澄んでいて、遠くの屋根瓦までくっきりと見える。
絵里奈が目を覚ますと、部屋の中には、昨夜の会話の余韻がまだ薄く漂っていた。
「……今日で、もう五日目なのね」
そう呟くと、伊織がカーテンの隙間から外を見ながら言った。
「早いな。 なんか、やっと慣れてきたところなのに」
絵里奈はベッドから起き上がり、髪をまとめながら微笑んだ。
「旅って、そういうものかもね」
ホテルの中庭からは、噴水の水音が静かに響いてくる。
その音が、今日という一日をゆっくりと始める合図のようだった。
「今日はどこ行くんだ?」
伊織が聞く。
「……サン・ミニアート・アル・モンテに行きたい」
絵里奈は窓の外を見ながら、そう言った。
「丘の上の教会か」
「うん」
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5日目の朝は、いつもよりゆっくりと流れていた。
まるで街が、二人にまだ行かないでと言っているように。
丘を登りきると、フィレンツェの街が一気に視界に広がった。
屋根瓦の赤が、朝の光を受けてゆっくりと温度を帯びていく。
その向こうにアルノ川が細い銀色の線を描く。
街全体がまるで薄いヴェールをまとったように見えた。
「綺麗」
「空気が違うね」
絵里奈は思わず立ち止まった。
サン・ミニアート・アル・モンテの白い大理石のファサードは、光を反射するのではなく、吸い込んでから柔らかく返すような独特の質感を持っていた。
影が薄く、輪郭が曖昧で、建物全体が光の中に浮かんでいるように見える。
「ここ、光がすごく静か」
絵里奈はゆっくりと聖堂に近づき、指先で大理石の表面をそっとなぞった。
それから、聖堂の扉をくぐると、外の光が一気に遠ざかる。
内部は深い静けさに包まれた。
だが、暗いわけではない。高い窓から落ちる光。
床のモザイクに細い帯を作り、その帯がゆっくりと移動していく。
「……動いてる」
伊織が小さく言う。
「太陽の角度で、光の線が少しずつずれていくの。この教会はね、時間が見える場所なのよ」
絵里奈は光の帯に足を踏み入れた。
その瞬間、彼女の影が床に柔らかく落ち、まるで光と影が静かに溶け合うようだった。
伊織はその姿を見つめていた。
「光が綺麗な場所って落ち着く」
振り返る絵里奈の笑顔が、聖堂の光と同じように思えた。
サン・ミニアートの丘を下る。
坂道の途中にある小さなジェラート屋の前で、絵里奈がふと足を止めた。
「食べたい」
その一言があまりに素直で、伊織は思わず笑った。
「さっきまで光がどうとか言ってたよね?」
「光は光、ジェラートはジェラートよ」
絵里奈は真顔で言う。
その切り替えの速さが妙に可笑しい。
店のショーケースを見る。
ピスタチオ、レモン、ストラッチャテッラ。
そして季節限定のオレンジのジェラートが並んでいた。
「どれにするんだ?」
伊織が聞く。
絵里奈は真剣な表情でショーケースを覗き込む。
「ピスタチオ」
「迷ってた割に、結局いつものじゃないか」
「ピスタチオは裏切らないのよ」
絵里奈は胸を張る。
伊織はストラッチャテッラを頼んだ。
二人で店の外の小さなベンチに腰を下ろした。
「美味しい」
絵里奈が目を細める。
「幸せそうだね」
伊織はその横顔を見て、言った。
「うん、あなたも食べる?」
そう言って、自分のピスタチオを差し出す。
「確かにうまいな」
伊織は笑いながら一口もらった。
そのやり取りが、フィレンツェの午後の光に溶けていく。
二人の影が石畳に並んで落ち、時々重なりながら揺れていた。
「……明日、帰るのね」
絵里奈は歩きながら、 そう言った。
「早かったな」
「やっと、馴染んできたところなのに」
ホテルに着くと、部屋の窓から見えるフィレンツェの夜景が、いつもより少しだけ遠く感じられた。
旅の終わりが近づいている。
荷物をまとめるほどの時間ではない。
でも、何もしないでいるには、どこか落ち着かない。
「帰りたくないってわけじゃないけど」
「けど?」
「惜しいね」
絵里奈はベッドの端に腰を下ろし、そう呟いた。
伊織はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「また来よう」
「そうね」
絵里奈がベッドから立ち上がる。
「シャワー浴びる?」
フィレンツェでは毎日聞いている。
「もちろん」
言わない日は無かった。




