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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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56/107

56.「傍にいてくれてありがとう」――二十年前の映画館、あの日の横顔。サンタ・クローチェで繋がる愛の記憶。

4日目の朝、カーテン越しの光が部屋の白い壁に淡く広がっていた。

フィレンツェの朝は、なぜか毎日少しずつ違う色をしているように見える。


絵里奈が目を覚ますと、窓の外から、パンを焼く匂いと、遠くの教会の鐘の音がかすかに届いていた。

「……今日もいい天気ね」


そう呟くと、伊織がベッドの反対側でゆっくりと身を起こした。

「もう四日目か。早いな」

「旅って、こういうものよ。 気がつくと、半分終わってる」


絵里奈は髪をまとめながら、鏡越しに伊織の姿をちらりと見た。

彼の表情はいつも通りなのに、どこか柔らかい。


「今日はどこ行くんだっけ」

伊織が言う。


「サンタ・クローチェと、工房街。あと、あなたが行きたいって言ってた店も」

「そうだったな」

絵里奈は微笑んだ。

「慣れてきた頃に、いちばん綺麗に見えるのよ、街って」


その日の午前。

サンタ・クローチェ広場に足を踏み入れると、

空気がふっと軽くなった気がした。


正面にそびえるサンタ・クローチェ聖堂は、

白い大理石と緑の装飾が陽光を受けて、まるで静かに発光しているようだった。


「ウフィツィとかアカデミアとは、また違うな」

伊織がそう言った。


「ここは街の呼吸がそのまま残ってる感じがするの」

絵里奈は聖堂のファサードを見上げ、その細かな装飾のひとつひとつを目で追った。


「この白い大理石、カッラーラの中でも柔らかい光を返す種類なのよ。だから、影が薄くて建物全体が軽く見えるの」

伊織は驚いたように眉を上げた。


「軽くね。 確かに、圧迫感がないな」

絵里奈は微笑んだ。

「素材が違うと、建物の性格も変わるのよ」

聖堂の扉をくぐると、外の光が一気に遠ざかり、内部はひんやりとした静けさに満ちていた。


高い天井から落ちる光が、床の石に淡い帯を作っている。

その光の中を歩くと、影がゆっくりと伸びたり縮んだりした。


「……落ち着く」

伊織が低く言う。

絵里奈はうなずく。

「ここ、偉人たちのお墓があるでしょう? ミケランジェロ、ガリレオ、マキャヴェッリ。でも、不思議と重くないの。眠っているというより、静かに見守っている感じがする」

伊織はその言葉を聞きながら、絵里奈の横顔を見つめた。

光の帯の中に立つ彼女は、まるでこの場所の空気と同じ質を持っているように見えた。


あの若い頃に、夜、二人で行ったあの映画館で見た横顔を思い出した。

「ん?どうした?惚れちゃった?」


あの時と、同じ台詞だった。

あの日から、俺はずっと、心の奥で、あの横顔を追い求めていたのかもしれない。

あの日の絵里奈をずっと俺は追い求めていた。

あの日、若くて、恥ずかしくて、言えなかった言葉は、今、言えばいい。


「絵里奈」

「どうしたの?」

「傍にいてくれてありがとう」

「急にどうしたの?でも、…嬉しい」

「これからもずっと、傍にいてほしい」

「もちろんよ」

腕を組んで、歩き始めた。



聖堂を出ると、広場の光が一段と明るく感じられた。

白い大理石のファサードが背中に残した余韻が、まだ絵里奈の胸の奥で静かに揺れている。


「こっちよ」

絵里奈が指さす細い路地に、伊織は少し遅れてついていく。


サンタ・クローチェの裏手に伸びる道は、観光客の多い大通りとは違い、

石畳の隙間にまで、生活の匂いが染み込んでいた。

革の香り、木屑の乾いた匂い、どこかの工房から聞こえる金槌の音。


「音がするな」

伊織が言う。

「工房が多いから、ほら、あそこ」

絵里奈が示した先には、小さな扉の奥で職人が革を切っている姿が見えた。


扉は開け放たれ、外の光が作業台の上に細い帯を落としている。

その光の中で、革の表面がわずかに艶を返した。


「……いい匂い」

絵里奈は立ち止まり、深く息を吸い込んだ。

伊織は横目で彼女を見て、「素材の匂いが分かるのか」と言う。


「革って、街ごとに香りが違うのよ。ここはタンニンが強い」

「そうなのか」

彼女の声はまるで、懐かしいものに触れたときのように柔らかかった。


路地を進むと、木の扉が半開きになった工房がいくつも並んでいた。

中からは、革を濡らす音、糸を引く音、金具を叩く音が、それぞれ違うリズムで響いてくる。


「音が全部違うんだな」

伊織が言う。

「職人ごとに癖があるのよ。 全部その人の手の音」

絵里奈は歩きながら、扉の隙間から見える作業台をひとつひとつ確かめるように眺めた。

「楽しそうだな」

伊織が少し笑う。

絵里奈は照れたように肩をすくめた。

「素材が生きてる街って、落ち着くのよ」

伊織は何も言わずにうなずいた。

その横顔が、この街の光と同じ質を帯びているように見えたからだ。

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