56.「傍にいてくれてありがとう」――二十年前の映画館、あの日の横顔。サンタ・クローチェで繋がる愛の記憶。
4日目の朝、カーテン越しの光が部屋の白い壁に淡く広がっていた。
フィレンツェの朝は、なぜか毎日少しずつ違う色をしているように見える。
絵里奈が目を覚ますと、窓の外から、パンを焼く匂いと、遠くの教会の鐘の音がかすかに届いていた。
「……今日もいい天気ね」
そう呟くと、伊織がベッドの反対側でゆっくりと身を起こした。
「もう四日目か。早いな」
「旅って、こういうものよ。 気がつくと、半分終わってる」
絵里奈は髪をまとめながら、鏡越しに伊織の姿をちらりと見た。
彼の表情はいつも通りなのに、どこか柔らかい。
「今日はどこ行くんだっけ」
伊織が言う。
「サンタ・クローチェと、工房街。あと、あなたが行きたいって言ってた店も」
「そうだったな」
絵里奈は微笑んだ。
「慣れてきた頃に、いちばん綺麗に見えるのよ、街って」
その日の午前。
サンタ・クローチェ広場に足を踏み入れると、
空気がふっと軽くなった気がした。
正面にそびえるサンタ・クローチェ聖堂は、
白い大理石と緑の装飾が陽光を受けて、まるで静かに発光しているようだった。
「ウフィツィとかアカデミアとは、また違うな」
伊織がそう言った。
「ここは街の呼吸がそのまま残ってる感じがするの」
絵里奈は聖堂のファサードを見上げ、その細かな装飾のひとつひとつを目で追った。
「この白い大理石、カッラーラの中でも柔らかい光を返す種類なのよ。だから、影が薄くて建物全体が軽く見えるの」
伊織は驚いたように眉を上げた。
「軽くね。 確かに、圧迫感がないな」
絵里奈は微笑んだ。
「素材が違うと、建物の性格も変わるのよ」
聖堂の扉をくぐると、外の光が一気に遠ざかり、内部はひんやりとした静けさに満ちていた。
高い天井から落ちる光が、床の石に淡い帯を作っている。
その光の中を歩くと、影がゆっくりと伸びたり縮んだりした。
「……落ち着く」
伊織が低く言う。
絵里奈はうなずく。
「ここ、偉人たちのお墓があるでしょう? ミケランジェロ、ガリレオ、マキャヴェッリ。でも、不思議と重くないの。眠っているというより、静かに見守っている感じがする」
伊織はその言葉を聞きながら、絵里奈の横顔を見つめた。
光の帯の中に立つ彼女は、まるでこの場所の空気と同じ質を持っているように見えた。
あの若い頃に、夜、二人で行ったあの映画館で見た横顔を思い出した。
「ん?どうした?惚れちゃった?」
あの時と、同じ台詞だった。
あの日から、俺はずっと、心の奥で、あの横顔を追い求めていたのかもしれない。
あの日の絵里奈をずっと俺は追い求めていた。
あの日、若くて、恥ずかしくて、言えなかった言葉は、今、言えばいい。
「絵里奈」
「どうしたの?」
「傍にいてくれてありがとう」
「急にどうしたの?でも、…嬉しい」
「これからもずっと、傍にいてほしい」
「もちろんよ」
腕を組んで、歩き始めた。
聖堂を出ると、広場の光が一段と明るく感じられた。
白い大理石のファサードが背中に残した余韻が、まだ絵里奈の胸の奥で静かに揺れている。
「こっちよ」
絵里奈が指さす細い路地に、伊織は少し遅れてついていく。
サンタ・クローチェの裏手に伸びる道は、観光客の多い大通りとは違い、
石畳の隙間にまで、生活の匂いが染み込んでいた。
革の香り、木屑の乾いた匂い、どこかの工房から聞こえる金槌の音。
「音がするな」
伊織が言う。
「工房が多いから、ほら、あそこ」
絵里奈が示した先には、小さな扉の奥で職人が革を切っている姿が見えた。
扉は開け放たれ、外の光が作業台の上に細い帯を落としている。
その光の中で、革の表面がわずかに艶を返した。
「……いい匂い」
絵里奈は立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
伊織は横目で彼女を見て、「素材の匂いが分かるのか」と言う。
「革って、街ごとに香りが違うのよ。ここはタンニンが強い」
「そうなのか」
彼女の声はまるで、懐かしいものに触れたときのように柔らかかった。
路地を進むと、木の扉が半開きになった工房がいくつも並んでいた。
中からは、革を濡らす音、糸を引く音、金具を叩く音が、それぞれ違うリズムで響いてくる。
「音が全部違うんだな」
伊織が言う。
「職人ごとに癖があるのよ。 全部その人の手の音」
絵里奈は歩きながら、扉の隙間から見える作業台をひとつひとつ確かめるように眺めた。
「楽しそうだな」
伊織が少し笑う。
絵里奈は照れたように肩をすくめた。
「素材が生きてる街って、落ち着くのよ」
伊織は何も言わずにうなずいた。
その横顔が、この街の光と同じ質を帯びているように見えたからだ。




