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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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55/107

55.「石が生きようとしている」――フィレンツェの美に共鳴する二人の魂。三日目の夜、アルノ川に誓う永遠。

朝の光が石畳に落ちる頃、二人はホテルを出て、ゆっくりとドゥオーモへ向かった。


角を曲がった瞬間、巨大な大聖堂が視界に現れる。

白と緑の大理石が朝日に照らされ、まるで静かに呼吸しているようだった。


「こんなに大きいんだ」


絵里奈は立ち止まり、つぶやく。


「動画や写真で見るより、ずっといいな」

白と緑と赤の大理石が朝の光を受けて、

まるで呼吸しているように見えた。

絵里奈はしばらく黙って見上げていたが、

やがて伊織に向けて静かに口を開いた。


「この大理石、全部違う産地なの」

「え?」

「白はカッラーラ、緑はプラート、赤はマレンマ」

「んんん?」

「色の違いじゃなくて、土地の違いがそのまま模様になってるのよ」

「よく知ってるね」


絵里奈は微笑んだ。

「素材を見る癖があるのよ。ほら、白い部分だけ光の吸い方が違うでしょう?」


伊織は言われて初めて、大理石の表面がわずかに柔らかく光っていることに気づいた。

「ほんとだ」

「アクセサリーとか、服とかもそう。…本質を見るくせがついたの」

「絵里奈が言うと、説得力があるな」

「でしょ?」


腕を組んで、歩き始めた。


午後、二人はアルノ川沿いを歩いてウフィツィへ向かった。

風がほんの少しだけ甘い匂いを運んでくる。


ウフィツィの中は静かだった。


「この線、すごく細い……」

絵里奈はボッティチェリの前で立ち止まり、呟いた。

絵の中の布の質感や髪の流れを追っている。

ここは、イタリア・ルネッサンスの傑作を数多く鑑賞することができる。

伊織は、絵里奈のように細かい点に至るまでの良さは分からない。

だが、ここにいるだけで、なんだが厳かな気分になれる。


「これも、深い赤ね」

ティツィアーノの深い赤の絵の前で、絵里奈は立ち止まった。


確かに、深いと言われれば、深い。


作家顔負けの表現だ。

「深い赤か。いいね、その表現」


伊織がそういうと、絵里奈が微笑む。

「作家の妻ですからね」

その様子を、少し離れた場所から見ていた男がいた。


地元の画家とも思える落ち着いた佇まいをした男が、絵を見つめる絵里奈の横に立った。


「Lei ha un buon occhio」

「Il colore sembrava vivo」

「Esatto.Se lo capisce,lei è fatta per questa città」

男が、微笑んで言った。

「Buona visita」

続けて、男はそう言って、立ち去った。


「絵里奈、あの人は?」

「現地の人みたい。この赤がわかるなら、この街に向いているって」

「そうなんだ」


伊織が絵里奈を尊敬する理由の一つは、その知性だった。

たゆまぬ努力で磨き上げられてきたその才能に、常に脱帽している。

つまらない仕事を、つまらないと言いながら、家族のためにと言い訳して、何もしてこなかった自分を恥じる気持ちはある。

しかし、絵里奈が出来ないことを自分がすればいいと今は思っていた。


----


翌日。

アカデミア美術館の入口をくぐると、空気がひんやりと変わった。

外の光と音が一瞬で遠ざかり、石壁が静かにすべてを吸い込んでいく。


絵里奈はその空気に、まるで深い井戸の底に降りていくような感覚を覚えた。

美術館というより、時間そのものの中に入っていくような静けさ。


ダヴィデ像の手前に並ぶ、未完の奴隷の彫刻群。

絵里奈はその前で足を止めた。


「すごい」


理解が追いつかない美しさだった。

石の塊から、人の身体が半ば浮かび上がり半ば石に囚われたままの姿。


「彫ってるんじゃなくて石の中から出てきてるみたい」

絵里奈はゆっくりと近づき、 石の表面を目で追った。

「石が生きようとしてるみたい」

その言葉は、ティツィアーノの赤を語ったときと同じだった。

素材の呼吸を感じ取る人の声だった。

伊織はやはり、この空気を味わうのが好きだった。


廊下の奥、天井から落ちる光の中心にダヴィデ像が立っていた。


白い大理石が光を受け、まるで内部から淡く発光しているように見える。


「これは、俺でも知ってる」

伊織が言うと、絵里奈が続けた。

「足の指のこの彫り、生きてるみたいね」


気が付けば、あっという間に三日目の夜になった。

部屋に戻ると、伊織が言った。


「次回作の参考になる」

「実際見ると、違うわよね」

「全然違う。そもそも雰囲気がなんというか」

「お、大先生の形容が聞けるのかしら?」


変なプレッシャーをかけてくる。

「空気が、澄んでるんだよ。作品の前に立つと、余計なものが全部消える感じがする」


絵里奈は少し驚いたように目を瞬いた。

「さすがね、先生」

「本当にそう感じたんだ」


窓の外のアルノ川の水音がかすかに聞こえる。

「ねえ、伊織」


絵里奈はその音に耳を澄ませながら、そう呼ぶ。

「ずっと、一緒にいたい」

「当たり前だ」

「約束できる?」

「ああ、約束だ」

そのやり取りの温度が、三日目の夜をゆっくりと深めていった。

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