55.「石が生きようとしている」――フィレンツェの美に共鳴する二人の魂。三日目の夜、アルノ川に誓う永遠。
朝の光が石畳に落ちる頃、二人はホテルを出て、ゆっくりとドゥオーモへ向かった。
角を曲がった瞬間、巨大な大聖堂が視界に現れる。
白と緑の大理石が朝日に照らされ、まるで静かに呼吸しているようだった。
「こんなに大きいんだ」
絵里奈は立ち止まり、つぶやく。
「動画や写真で見るより、ずっといいな」
白と緑と赤の大理石が朝の光を受けて、
まるで呼吸しているように見えた。
絵里奈はしばらく黙って見上げていたが、
やがて伊織に向けて静かに口を開いた。
「この大理石、全部違う産地なの」
「え?」
「白はカッラーラ、緑はプラート、赤はマレンマ」
「んんん?」
「色の違いじゃなくて、土地の違いがそのまま模様になってるのよ」
「よく知ってるね」
絵里奈は微笑んだ。
「素材を見る癖があるのよ。ほら、白い部分だけ光の吸い方が違うでしょう?」
伊織は言われて初めて、大理石の表面がわずかに柔らかく光っていることに気づいた。
「ほんとだ」
「アクセサリーとか、服とかもそう。…本質を見るくせがついたの」
「絵里奈が言うと、説得力があるな」
「でしょ?」
腕を組んで、歩き始めた。
午後、二人はアルノ川沿いを歩いてウフィツィへ向かった。
風がほんの少しだけ甘い匂いを運んでくる。
ウフィツィの中は静かだった。
「この線、すごく細い……」
絵里奈はボッティチェリの前で立ち止まり、呟いた。
絵の中の布の質感や髪の流れを追っている。
ここは、イタリア・ルネッサンスの傑作を数多く鑑賞することができる。
伊織は、絵里奈のように細かい点に至るまでの良さは分からない。
だが、ここにいるだけで、なんだが厳かな気分になれる。
「これも、深い赤ね」
ティツィアーノの深い赤の絵の前で、絵里奈は立ち止まった。
確かに、深いと言われれば、深い。
作家顔負けの表現だ。
「深い赤か。いいね、その表現」
伊織がそういうと、絵里奈が微笑む。
「作家の妻ですからね」
その様子を、少し離れた場所から見ていた男がいた。
地元の画家とも思える落ち着いた佇まいをした男が、絵を見つめる絵里奈の横に立った。
「Lei ha un buon occhio」
「Il colore sembrava vivo」
「Esatto.Se lo capisce,lei è fatta per questa città」
男が、微笑んで言った。
「Buona visita」
続けて、男はそう言って、立ち去った。
「絵里奈、あの人は?」
「現地の人みたい。この赤がわかるなら、この街に向いているって」
「そうなんだ」
伊織が絵里奈を尊敬する理由の一つは、その知性だった。
たゆまぬ努力で磨き上げられてきたその才能に、常に脱帽している。
つまらない仕事を、つまらないと言いながら、家族のためにと言い訳して、何もしてこなかった自分を恥じる気持ちはある。
しかし、絵里奈が出来ないことを自分がすればいいと今は思っていた。
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翌日。
アカデミア美術館の入口をくぐると、空気がひんやりと変わった。
外の光と音が一瞬で遠ざかり、石壁が静かにすべてを吸い込んでいく。
絵里奈はその空気に、まるで深い井戸の底に降りていくような感覚を覚えた。
美術館というより、時間そのものの中に入っていくような静けさ。
ダヴィデ像の手前に並ぶ、未完の奴隷の彫刻群。
絵里奈はその前で足を止めた。
「すごい」
理解が追いつかない美しさだった。
石の塊から、人の身体が半ば浮かび上がり半ば石に囚われたままの姿。
「彫ってるんじゃなくて石の中から出てきてるみたい」
絵里奈はゆっくりと近づき、 石の表面を目で追った。
「石が生きようとしてるみたい」
その言葉は、ティツィアーノの赤を語ったときと同じだった。
素材の呼吸を感じ取る人の声だった。
伊織はやはり、この空気を味わうのが好きだった。
廊下の奥、天井から落ちる光の中心にダヴィデ像が立っていた。
白い大理石が光を受け、まるで内部から淡く発光しているように見える。
「これは、俺でも知ってる」
伊織が言うと、絵里奈が続けた。
「足の指のこの彫り、生きてるみたいね」
気が付けば、あっという間に三日目の夜になった。
部屋に戻ると、伊織が言った。
「次回作の参考になる」
「実際見ると、違うわよね」
「全然違う。そもそも雰囲気がなんというか」
「お、大先生の形容が聞けるのかしら?」
変なプレッシャーをかけてくる。
「空気が、澄んでるんだよ。作品の前に立つと、余計なものが全部消える感じがする」
絵里奈は少し驚いたように目を瞬いた。
「さすがね、先生」
「本当にそう感じたんだ」
窓の外のアルノ川の水音がかすかに聞こえる。
「ねえ、伊織」
絵里奈はその音に耳を澄ませながら、そう呼ぶ。
「ずっと、一緒にいたい」
「当たり前だ」
「約束できる?」
「ああ、約束だ」
そのやり取りの温度が、三日目の夜をゆっくりと深めていった。




