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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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54/107

54.「来てよかったな」――アルノ川のせせらぎと、石壁の私邸。フィレンツェの夜に溶け合う二人。

長いフライトの後、ローマ経由でフィレンツェに到着した。


機体がゆっくりと降下を始めると、窓の外に、オレンジ色の屋根が連なる街並みが見えてきた。

その向こうに、アルノ川が銀色の帯のように流れている。

絵里奈は窓に顔を近づける。


「本当に来たんだ」

「ああ、さすがに遠かったけどね」

「乗り継ぎあったからね」


成田空港を出てから、20時間近くはかかった。

着陸の衝撃が柔らかく伝わり、機体が滑走路を走り始める。


----


空港からタクシーで市街地へ向かう。

石畳の道と、古い建物が並ぶ細い通りが続いた。

夕方の光が街全体を金色に染めている。


----


ホテルは、絵里奈が選んだ。

18世紀の貴族の邸宅を丁寧に修復した、静かでありながら圧倒的な存在感を放つ建物だった。

外観は控えめだが、石造りの壁と重厚な木製の扉には、長い年月を経たものだけが持つ深い艶が宿っている。

中に足を踏み入れると、磨き込まれた大理石の床と、天井に残されたフレスコ画が柔らかい光を受けて静かに輝いていた。

その空気は、選ばれた者だけが招かれるような私邸だ。


ドアマンが軽く会釈した。

「Benvenuti」

「Grazie」

絵里奈が答えた。

今回の旅行に関して、伊織は黙って絵里奈の後をついていくことにしている。


ロビーは広くない。

だが、天井のフレスコ画と、深い色の大理石の床が、この場所が長い時間を生きてきたことを静かに伝えていた。


「手織りね。糸の太さが均一じゃない」

絵里奈は壁に掛けられたタペストリーに目を留めた。


「よく分かるな」

伊織はスーツケースを押しながら言った。


部屋に案内される。

石造りの壁がひんやりとした空気を抱え込んでいて、

外の喧騒とは別世界の静けさがあった。


窓を開けると、アルノ川の水音がかすかに聞こえる。

夕暮れの光が川面に揺れ、天井に金色の反射を落としていた。

絵里奈はその光を見つめていた。


「落ち着くな」

伊織は窓辺に立ってつぶやいた。


荷物をほどき、少し休んでから外に出る。

フィレンツェの夜は驚くほど静かだった。


石畳の道に、街灯の柔らかい光が落ちている。

観光客の声もまばらで、風が通り抜ける音だけが耳に残った。


二人はアルノ川沿いを歩いた。

川面には、街灯の光が細い帯のように揺れている。


「ねえ、伊織」

「ん?」

「こんな感じの夜はまるで初めてだけど」

「うん」

「何も急がなくていいのね」


川沿いの風が、二人の間を静かに通り抜けていく。


ホテルに戻ると、部屋の照明が柔らかく灯っていた。

石壁に反射する光が、まるで古い絵画のように部屋を包んでいる。


「明日、どこ行こうか」

絵里奈はベッドの端に腰を下ろして、そう言った。


「気の向くまま」

伊織は、絵里奈の隣に座って、肩を抱き寄せる。


「シャワー浴びる?」

いつもの決まり文句だ。


フィレンツェで聞けるとは思いもしなかった。

「もちろん」


----


部屋の灯りは落とされ、石壁に残るわずかな光だけが、

二人の輪郭を柔らかく浮かび上がらせている。


絵里奈は窓の外のアルノ川を見つめながら、

胸の奥にゆっくりと広がっていく温度を感じていた。

もっと静かで、深いもの。


伊織がそっと近づく気配がした。

触れられる前から、その存在が肌に落ちてくるような感覚がある。


「来てよかったな」

絵里奈は振り返る。

言葉はいらなかった。


伊織の手が絵里奈に触れる。

目を閉じた。

触れ方は驚くほど優しかった。


アルノ川の水音がかすかに響いている。

二人の距離はゆっくりと、自然にひとつへと近づいていった。

石壁に映る影が重なり、離れて、また重なる。


二人の吐息が、闇に消えていった。

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