52.「やっと行けるんだね」――マイバッハを預け、ファーストクラスで飛び立つ二人の“真の新婚旅行”。
駐車サービスの建物の前に、マイバッハが静かに停まった。
エンジンを切ると、車内に深い静寂が落ちる。
外では、白手袋をはめた係員がすでに待っていた。
姿勢は正しく、声は抑えめ。
この車を扱うことに慣れているはずなのに、どこか慎重な気配がある。
伊織がドアを開けると、係員は一歩前に出て、
「お預かりいたします」と丁寧に頭を下げた。
白手袋の指先が、わずかに緊張しているようにも見える。
絵里奈が降り立つと、係員は深く礼をしてから、静かな声で言った。
「お帰りまでに洗車しておきます。外装も内装も、万全の状態でお戻しいたします」
絵里奈は軽く微笑んで、お願いします、とだけ言った。
その一言に、係員の表情がわずかに和らいだ。
伊織は、よろしくお願いしますと言って、鍵を係員に渡した。
係員は両手で鍵を受け取り、まるで宝物を扱うように胸の前でそっと固定した。
「かしこまりました。どうぞ、良いご旅行を」
二人が歩き出すと、背後でマイバッハがゆっくりと係員の手に引かれていく。
絵里奈は振り返る。
「帰ってくるまで、綺麗にしてもらえるわね」
「こんなサービスあったんだね、知らなかった」
スーツケースのハンドルを軽く押した。
二人の影が並んで伸び、その先に、旅の始まりの空気が静かに広がっていた。
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ターミナルの自動ドアが開くと、冷たい空調の風がふわりと頬を撫でた。
外の朝の湿気とは違う、乾いた空気。
旅の始まりの匂いがした。
伊織はスーツケースを軽く押しながら、ファーストクラス専用のカウンターへ向かった。
周囲のざわめきはあるのに、二人の歩く速度だけがゆっくりしているように感じられた。
カウンターのスタッフは、二人を見ると自然に姿勢を正した。
「おはようございます。フィレンツェまでですね」
絵里奈はパスポートを差し出した。
「お願いします」
その声は、空港の喧騒の中でも不思議とよく通った。
スタッフが手際よく手続きを進める間、伊織は特に興味もなさそうに周囲を眺めている。
「お荷物はお預かりいたします。 ラウンジをご利用いただけますので、ご搭乗までごゆっくりお過ごしください」
搭乗券を受け取ると、ラウンジへと向かう。
ラウンジの扉が閉まると、
外のざわめきが一瞬で遠のいた。
空気が変わる。
柔らかい照明と、深い色のカーペット。
人の声は抑えられ、コーヒーの香りだけが静かに漂っている。
窓際の席に座ると、滑走路の向こうに朝日が昇り始めていた。
金色の光が、まだ眠っている飛行機の胴体に淡く反射している。
「静かで、整っている。いい場所ね」
カプチーノを受け取り泡のきめ細かさを眺めながら絵里奈が言った。
「俺も落ち着く」
伊織はソファに深く腰を下ろしていた。
その隣に絵里奈は座った。
二人はしばらく言葉を交わさず、
ただ窓の外の光の変化を眺めていた。
「ねえ、伊織」
「どうした?」
「私ね、実は新婚旅行は行ってないの」
「前の時?」
「そう。伊織は?」
「子供が出来ていた。そんな余裕はなかった」
「そうだったんだ」
窓の外には、滑走路の向こうに並ぶ飛行機があった。
「みんな、どこかへ行くのね」
「そうだな」
「私たちも、やっと行けるんだね。ちゃんとした新婚旅行」
「遅くなったけどね」
絵里奈は微笑む。
窓の外では、ちょうど一機の飛行機がゆっくりと動き出し、朝の光の中へ滑るように進んでいった。
搭乗アナウンスが流れると、ラウンジの空気がわずかに動いた。
絵里奈はカップを静かに置き、行きましょう、と立ち上がる。
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ファーストクラスのシートは、まるで小さな個室のようだった。
絵里奈は窓側に座り、外の景色を眺めていた。
「ファーストクラスって、こんな感じなんだ」
伊織は、座り心地を確かめたり、周囲の様子を確認したりして、
なんだか落ち着かない雰囲気を出していた。
「私だって、初めてよ」
「絵里奈も?」
「ファーストクラスはね」
機体がゆっくりと動き出し、窓の外の景色が滑るように流れていく。
離陸からしばらくして、機体が安定した高度に達すると、
シートベルト着用サインが静かに消えた。
絵里奈は窓の外を見つめていた。
雲の層が幾重にも重なり、その上に広がる淡い青が、まるで別の世界の空のように見えた。




