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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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52/107

52.「やっと行けるんだね」――マイバッハを預け、ファーストクラスで飛び立つ二人の“真の新婚旅行”。

駐車サービスの建物の前に、マイバッハが静かに停まった。

エンジンを切ると、車内に深い静寂が落ちる。

外では、白手袋をはめた係員がすでに待っていた。

姿勢は正しく、声は抑えめ。

この車を扱うことに慣れているはずなのに、どこか慎重な気配がある。


伊織がドアを開けると、係員は一歩前に出て、

「お預かりいたします」と丁寧に頭を下げた。

白手袋の指先が、わずかに緊張しているようにも見える。


絵里奈が降り立つと、係員は深く礼をしてから、静かな声で言った。

「お帰りまでに洗車しておきます。外装も内装も、万全の状態でお戻しいたします」


絵里奈は軽く微笑んで、お願いします、とだけ言った。

その一言に、係員の表情がわずかに和らいだ。

伊織は、よろしくお願いしますと言って、鍵を係員に渡した。

係員は両手で鍵を受け取り、まるで宝物を扱うように胸の前でそっと固定した。

「かしこまりました。どうぞ、良いご旅行を」



二人が歩き出すと、背後でマイバッハがゆっくりと係員の手に引かれていく。

絵里奈は振り返る。


「帰ってくるまで、綺麗にしてもらえるわね」

「こんなサービスあったんだね、知らなかった」


スーツケースのハンドルを軽く押した。

二人の影が並んで伸び、その先に、旅の始まりの空気が静かに広がっていた。


----



ターミナルの自動ドアが開くと、冷たい空調の風がふわりと頬を撫でた。

外の朝の湿気とは違う、乾いた空気。

旅の始まりの匂いがした。


伊織はスーツケースを軽く押しながら、ファーストクラス専用のカウンターへ向かった。

周囲のざわめきはあるのに、二人の歩く速度だけがゆっくりしているように感じられた。


カウンターのスタッフは、二人を見ると自然に姿勢を正した。


「おはようございます。フィレンツェまでですね」


絵里奈はパスポートを差し出した。

「お願いします」


その声は、空港の喧騒の中でも不思議とよく通った。

スタッフが手際よく手続きを進める間、伊織は特に興味もなさそうに周囲を眺めている。


「お荷物はお預かりいたします。 ラウンジをご利用いただけますので、ご搭乗までごゆっくりお過ごしください」


搭乗券を受け取ると、ラウンジへと向かう。


ラウンジの扉が閉まると、

外のざわめきが一瞬で遠のいた。

空気が変わる。

柔らかい照明と、深い色のカーペット。

人の声は抑えられ、コーヒーの香りだけが静かに漂っている。


窓際の席に座ると、滑走路の向こうに朝日が昇り始めていた。

金色の光が、まだ眠っている飛行機の胴体に淡く反射している。


「静かで、整っている。いい場所ね」

カプチーノを受け取り泡のきめ細かさを眺めながら絵里奈が言った。


「俺も落ち着く」

伊織はソファに深く腰を下ろしていた。


その隣に絵里奈は座った。

二人はしばらく言葉を交わさず、

ただ窓の外の光の変化を眺めていた。


「ねえ、伊織」

「どうした?」

「私ね、実は新婚旅行は行ってないの」

「前の時?」

「そう。伊織は?」

「子供が出来ていた。そんな余裕はなかった」

「そうだったんだ」


窓の外には、滑走路の向こうに並ぶ飛行機があった。

「みんな、どこかへ行くのね」

「そうだな」

「私たちも、やっと行けるんだね。ちゃんとした新婚旅行」

「遅くなったけどね」

絵里奈は微笑む。


窓の外では、ちょうど一機の飛行機がゆっくりと動き出し、朝の光の中へ滑るように進んでいった。


搭乗アナウンスが流れると、ラウンジの空気がわずかに動いた。

絵里奈はカップを静かに置き、行きましょう、と立ち上がる。


----


ファーストクラスのシートは、まるで小さな個室のようだった。

絵里奈は窓側に座り、外の景色を眺めていた。

「ファーストクラスって、こんな感じなんだ」

伊織は、座り心地を確かめたり、周囲の様子を確認したりして、

なんだか落ち着かない雰囲気を出していた。


「私だって、初めてよ」

「絵里奈も?」

「ファーストクラスはね」


機体がゆっくりと動き出し、窓の外の景色が滑るように流れていく。

離陸からしばらくして、機体が安定した高度に達すると、

シートベルト着用サインが静かに消えた。

絵里奈は窓の外を見つめていた。

雲の層が幾重にも重なり、その上に広がる淡い青が、まるで別の世界の空のように見えた。

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