5.導愛
交わりの余韻が残るベッドで、二人はしばらく言葉を失っていた。
絵里奈の体温が、伊織の胸の奥にじんわりと染み込んでいく。
その温もりは、長い年月の中で忘れていた、生きている実感そのものだった。
「伊織…気持ちよかった」
絵里奈は、まるで胸の奥にしまっていた本音をそっと取り出すように言った。
その声が震えているのを感じ、伊織は髪を撫でながら静かに応えた。
「俺もだよ」
額に触れた唇の感触が、胸の奥の冷たい部分を少しずつ溶かしていく。
ああ、俺はまだ生きている。
そんな思いが、ゆっくりと身体の中心に灯っていった。
「ちょっと飲みたいな」
「じゃあ、シャワー浴びてからにしよう」
二人はゆっくりと起き上がり、バスローブを羽織ってソファへ向かった。
缶ビールを開け、紙コップに注ぎ合う。
その何気ない仕草が、なぜか胸に沁みた。
「伊織、優しくなったよね」
「どうだろう。絵里奈にだけかもしれない」
「どうして?」
「大切な人だから。傷つけたくない」
言葉にした瞬間、自分でも驚くほど素直だった。
絵里奈は、少しだけ目を伏せて微笑む。
「じゃあ、会社の人は?」
「…仕事だけの関係だよ」
「じゃあ、傷つけてもいいの?」
その問いは、まるで心の奥に隠していた痛点を
そっと押されたようだった。
伊織は、過去に注意されたことを思い出す。
語気が強くなり、相手を追い詰めてしまう癖。
こうあるべきだ、と自分を縛り、他人にもそれを押しつけてしまう弱さ。
絵里奈は、そんな伊織の弱さを責めることなく、
ただ静かに受け止めていた。
「伊織、もう無理しないで。あなたは会社員に向いてない。
本当は、別の道を歩みたかったんでしょう?」
その声は、責めるでもなく、慰めるでもなく、
ただ真実をそっと差し出すような響きだった。
図星だった。
今の仕事のぬるま湯が、逆に自分を鈍らせていた。
「それで良いとは、思ってないんでしょう?」
伊織は、図星を突かれていた。
確かに、伊織を纏っていた遁世感は、今の仕事も影響しているのかもしれない。
「伊織…私、あなたに抱かれて、気がついたの、あなたの事」
伊織は、黙っていた。
「あなたはずっと、生きたかったのね、自分の人生を」
「…」
「もっと自由に生きたかった。でも、出来なかった…でしょ?」
自分の本心など、誰にも見せたくはなかった。
惨めに思われるのが、嫌だった。
絵里奈は、今の伊織の心を誰よりも理解して、
そっと触れてきた。
それは、温かく。
伊織は、涙を流していた。
「伊織……すぐには、変われないと思うけど、私がいるから」
絵里奈が、伊織を抱き締めてきた。
伊織は、絵里奈の胸に顔を埋めて、少しだけ泣いた。
「伊織…大好きよ」
絵里奈が耳元で囁いた。
その声が優しくて、もっと聞きたかった。
こうして、絵里奈の胸で甘えていたい。
伊織は、自分の中にあった冷たい何かが、
静かに溶けていくのを感じていた。
――
翌日。
新幹線で帰り、午後には絵里奈のマンションに着いた。
伊織は一度自宅に戻り、着替えようとした時、メッセージが届く。
今日は、伊織の家に行ってみたい。
胸が少しだけ跳ねた。
見せたいような、見せたくないような。
そんな複雑な感情が混ざり合う。
「じゃあ、迎えに行くよ」と返信し、ミラに乗り込んだ。
マンション前に着くと、絵里奈は不機嫌そうに眉を寄せた。
「…何これ?代車?」
「いや、俺の車…」
「はあ…彼氏が迎えに来る車がこれって…」
その言葉は痛かったが、責める気持ちは湧かなかった。
むしろ、彼女の価値観が“普通の女性の感覚”だと分かり、
自分がどれほど長い間、生活に追われていたかを思い知らされた。
「ごめん、お金の問題で…」
「…ほんとに変わったね、伊織くん。昔なら怒ってたよ」
その言葉に、伊織は少しだけ笑った。
確かに、昔の自分なら反発していたかもしれない。
でも今は違う。
絵里奈の言葉は、責めではなく“期待”だと分かるから。
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伊織の家に着くと、絵里奈は部屋を見回し、ぽつりと言った。
「…なんだか、寂しい部屋ね」
その言葉は図星だった。
生活のために働き、家族のために生き、
気づけば自分のための空間はどこにもなかった。
「まあ、そうだね」
寝室を覗いた絵里奈は、少しだけ微笑む。
「意外に綺麗じゃない」
「物が少ないからね」
居間に戻ると、絵里奈の瞳がきらりと光った。
「じゃあ、家は良しとして…問題はその他ね」
「その他…?」
「伊織くん、今日から彼氏見習いね」
「ええ〜…」
「私の理想に少しでも近づいたら、正式に彼氏にしてあげる」
冗談めかして言うが、
その奥に“あなたをもっと良くしたい”という愛情が透けて見えた。
「で、まずは現状把握。今の生活、詳しく教えて」
伊織は離婚後の経済状況を話した。
話しながら、自分がどれほど“生きるためだけに生きていた”かを痛感する。
絵里奈は静かに聞き、やがて言った。
「地方の家庭は、共働きでもギリギリ。それが現実なのよ。
でもね、環境を変えれば全然違う。あなたは能力じゃなくて、環境で損してるの」
その言葉は、伊織の胸に深く刺さった。
責めるのではなく、未来を示す言葉だった。
絵里奈はパソコンを指差す。
「まずは副業しましょ。パソコンあるじゃん」
「副業って…」
「私が、手取り足取り、教えてあげる」
そう言って、絵里奈は伊織の頬にそっとキスをした。
その温度が、未来の扉を静かに開くように感じられた。




