48.「本当に、すまなかった」――宿敵・片桐の謝罪と、頬に残されたルージュ。夜風に溶けゆく過去の残像。
「…でね、私、思わずビンタしちゃったの」
「あはは、ちょっと笑っちゃう」
優子に、さきほど廊下で片桐とあった一件を話し終えたところだった。
酔いが回ってきているのが分かる。自分にも、優子にも。
「…でもさ、片桐常務は、忘れられないんだろうね。きっと」
優子がつぶやき、グラスに口をつける。
そのまま、まるでドラマのセリフでも言うような調子で続けた。
「それから、ずっと、絵里奈に振られ続けて…別の男に二度も奪われて… ああ、なんてかわいそうな人…でもね」
篠崎も絵里奈も、黙って聞いている。
「あんな男って、言ったんでしょ?片桐さん。ふふ。あんたなんかより、よっぽどいい男だよ、絵里奈の旦那は」
「優子、今日は酔ってるね」
「よろしいのではないでしょうか、今日くらい」
篠崎が言うと、優子はその肩に手を回した。
「…分かってるねぇ、篠崎君。あら、よく見ると」
「…どうしました? 中村部長」
「…可愛い顔してるねえ」
唐突に、優子が篠崎の頬に口づけた。
ルージュの色が、かすかにその頬に残る。
「な、中村…部長…」
「ねえ、優子って呼んで…」
「あら篠崎君。お邪魔虫は消えるね」
絵里奈は、酔いに任せて、篠崎に絡み始めた優子を置いていくつもりだった。
それに、さきほどの件もあり、少し夜風に当たって頭を冷やしたかった。
「ちょっと…待ってください」
慌てる篠崎に構わず絵里奈は、ちょっと失礼、と言って席を立った。
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絵里奈が席を離れたころ、伊織はマイバッハから荷物を取り出し、エレベーターへ向かっていた。
最上階のボタンを押すと、静かな機械音とともに扉が閉まる。
最上階に着くと、廊下は驚くほど静かだった。
絨毯が足音を吸い込み、遠くで空調の低い唸りだけが続いている。
部屋に入ると、柔らかな照明が迎えてくれた。
伊織は持ってきた二つのスーツケースをベッド脇に置く。
「……戻らないとな」
独り言のように呟き、伊織はもう一度だけ深呼吸をした。
それから、会場に戻るため、静かに部屋を後にした。
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絵里奈は、外に出ると、夜風が頬に触れた。
さっきまでの熱気が嘘のように引いていく。
ホテルのエントランス脇、植え込みの影に人影が見えた。
片桐だった。
ネクタイを緩め、片手に缶コーヒー。
その姿は、宴会場で見せていた威圧感とはまるで別人のように見えた。
絵里奈に気づくと、彼はわずかに肩をすくめた。
「……さっきは、悪かった」
夜風に混じって、低い声が届く。
謝罪というより、搾り出すような言葉だった。
「酔ってたんだろうけど……あれは、ちょっと」
絵里奈が言うと、片桐は苦笑した。
その笑い方は、昔と変わっていない。
「分かってる。言い訳するつもりはない」
缶コーヒーを握る指が、白くなるほど力が入っている。
「君を見ると、どうしても昔のことを思い出す。忘れたつもりでいたのに、全然、忘れられていない」
その言葉に、返す言葉を探せなかった。
夜風が吹き抜け、二人の間に沈黙が落ちる。
片桐は視線を落とす。
「さっき、水原さんに会ったよ」
「…伊織に?」
「ああ、荷物を運びに行く途中だった」
少し胸がざわつく。
「なんの話をしたの?」
「昔話さ」
「彼はなんて?」
「…俺が、俺自身と彼女の想いを縛りつけてる、だそうだ」
誰しもが言ってあげられない事を、伊織は片桐に対して言ったようだ。
何か言おうと思ったが、やめた。
ホテルの自動ドアが開き、ロビーの明かりが二人を照らすと、絵里奈は、そちらへ歩き出す。
片桐が、歩き出した絵里奈に向かって言った。
「本当に、すまなかった」
その言い方が妙に真面目で、絵里奈は思わず小さく息を吐いた。
絵里奈は、軽く会釈だけをして、会場へ戻っていった。
片桐は何も言わず、ただその背中を見送っていた。




