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氷の薔薇と銀の狼 -Relight-  作者: 水原伊織


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47/107

47.「自由にしてあげなさい」――宿敵・片桐の執着を断ち切った、銀狼(伊織)の静かなる救済。

外へ出ると、夜気がふっと肌を撫でた。

地下駐車場のこもった空気とは違い、冷たさの中にわずかな湿り気がある。

ホテルの照明が背後でぼんやりと滲み、車寄せの喧騒は距離とともに薄れていった。


片桐は無言のまま歩き続け、ホテルの敷地を抜けた先にある、小さな植え込みの脇のベンチで足を止めた。

街灯に照らされたベンチは、誰も座った形跡がなく、夜の静けさに沈んでいる。


「ここでいいでしょう」

片桐はそう言って腰を下ろした。

伊織も隣に座る。

二人の間に、わずかに空いた距離。


しばらく、風の音だけが流れた。

ホテルの方から、遠く笑い声がかすかに届く。


「さっきのことですが」


片桐が口を開いた。


「廊下で会ったとき、少し様子が変でしたよね」


伊織がそう言うと、片桐は苦笑ともため息ともつかない息を漏らした。

片桐は頬に触れた。

赤みはもう引いているようだったが、その仕草にはどこか痛みが残っている。


「実は…」


言葉がそこで途切れた。

片桐は視線を夜空へ向ける。

街灯の光が届かない、深い藍色の空。


「話すべきか、迷っていたんです。でも…あなたなら、と思いまして」


伊織は黙って聞いていた。

片桐の声は、いつもの冷静さとは違う、どこか脆さを含んでいた。


「……聞いていただけますか」


片桐はしばらく黙っていた。

夜風が、二人の間に置かれた沈黙をそっと揺らす。


「……水原さん」

ようやく絞り出すように片桐が言う。


「実は、あなたの奥さまを見ていると、どうしても思い出してしまう人がいるんです」


伊織の視線がわずかに動く。片桐は続けた。


「昔、私には、結婚を考えていた女性がいました。もう随分前の話です。彼女は、絵里奈さんによく似ている」


言葉を選びながら片桐は話している。


「顔立ちが、というより、雰囲気が、でしょうか」

「…」

「笑ったときの目元とか、声の調子とか、ふとした瞬間に、重なるんです」


片桐は苦笑した。自嘲にも似た、弱い笑み。


「馬鹿げているでしょう」

「…」

「いい歳をして、こんなふうに引きずっているなんて」


伊織は黙っていた。

否定も慰めも、どちらも違う気がした。

片桐は、夜空を見上げた。

街灯の光が届かない、深い藍色の空。


「だから、距離を置こうと思っていました。誤解を招くような気持ちではありません。ただ、自分の中で整理がついていないだけで」


「…永遠」


伊織は、そうつぶやいた。


「…水原さん?」


伊織は話し始める。


「片桐さん、多分もうその女性の事は、一生忘れられないと思います」


「…」


「思い出は、美化された状態で、永遠に残ります」


「水原さん…」


「執着を捨てない限りは」


「執着…」


「片桐さんに聞きますが、その女性の事を忘れない理由はなんですか?」


「それは…そうだろう…私は、とても愛していたんだ」


「ええ。愛していたから、忘れられないんです」


伊織はゆっくりと言葉を選ぶ。


「人が誰かを忘れられないのは、縁が深いから」

「縁…」


「俺は、実は絵里奈のことは、再会するまで忘れてました。だけど、再び出会ったときに、全てを思い出しました。切なくなるような想いも、傷をつけたことも、彼女に振られたことも全て」

「…」


伊織は、一呼吸置いた。


「縁は、形を変えることもあると感じてます」

「いつか、彼女にまた巡り合える日が来るというのか?」

「それは、誰にもわかりませんが、少なくとも、その人と出会って、片桐さんが交わした想いは、忘れなくていいと思います。ただ…」

「ただ…」

「ただ、今は自由にしてあげるべきかと思います」

「自由…」

「その女性も、片桐さん自身も」

「…想うことが、縛ることになるのか…」


片桐は、しばらく何も言わなかった。

ただ、伊織の言葉のひとつひとつが、

胸の奥の固く閉じた場所に触れていくのを感じていた。


「そんなふうに、考えたことはなかったな」

「出過ぎたことを申しました。そろそろ失礼します」


伊織は、ベンチから立ち上がり、地下駐車場へと戻る。


背後で、片桐がつぶやく。


「私は、ただ…忘れたくなかっただけなんだ。彼女を忘れたら、自分まで消えてしまう気がして」


伊織は、何も言わずにその場を離れた。


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