47.「自由にしてあげなさい」――宿敵・片桐の執着を断ち切った、銀狼(伊織)の静かなる救済。
外へ出ると、夜気がふっと肌を撫でた。
地下駐車場のこもった空気とは違い、冷たさの中にわずかな湿り気がある。
ホテルの照明が背後でぼんやりと滲み、車寄せの喧騒は距離とともに薄れていった。
片桐は無言のまま歩き続け、ホテルの敷地を抜けた先にある、小さな植え込みの脇のベンチで足を止めた。
街灯に照らされたベンチは、誰も座った形跡がなく、夜の静けさに沈んでいる。
「ここでいいでしょう」
片桐はそう言って腰を下ろした。
伊織も隣に座る。
二人の間に、わずかに空いた距離。
しばらく、風の音だけが流れた。
ホテルの方から、遠く笑い声がかすかに届く。
「さっきのことですが」
片桐が口を開いた。
「廊下で会ったとき、少し様子が変でしたよね」
伊織がそう言うと、片桐は苦笑ともため息ともつかない息を漏らした。
片桐は頬に触れた。
赤みはもう引いているようだったが、その仕草にはどこか痛みが残っている。
「実は…」
言葉がそこで途切れた。
片桐は視線を夜空へ向ける。
街灯の光が届かない、深い藍色の空。
「話すべきか、迷っていたんです。でも…あなたなら、と思いまして」
伊織は黙って聞いていた。
片桐の声は、いつもの冷静さとは違う、どこか脆さを含んでいた。
「……聞いていただけますか」
片桐はしばらく黙っていた。
夜風が、二人の間に置かれた沈黙をそっと揺らす。
「……水原さん」
ようやく絞り出すように片桐が言う。
「実は、あなたの奥さまを見ていると、どうしても思い出してしまう人がいるんです」
伊織の視線がわずかに動く。片桐は続けた。
「昔、私には、結婚を考えていた女性がいました。もう随分前の話です。彼女は、絵里奈さんによく似ている」
言葉を選びながら片桐は話している。
「顔立ちが、というより、雰囲気が、でしょうか」
「…」
「笑ったときの目元とか、声の調子とか、ふとした瞬間に、重なるんです」
片桐は苦笑した。自嘲にも似た、弱い笑み。
「馬鹿げているでしょう」
「…」
「いい歳をして、こんなふうに引きずっているなんて」
伊織は黙っていた。
否定も慰めも、どちらも違う気がした。
片桐は、夜空を見上げた。
街灯の光が届かない、深い藍色の空。
「だから、距離を置こうと思っていました。誤解を招くような気持ちではありません。ただ、自分の中で整理がついていないだけで」
「…永遠」
伊織は、そうつぶやいた。
「…水原さん?」
伊織は話し始める。
「片桐さん、多分もうその女性の事は、一生忘れられないと思います」
「…」
「思い出は、美化された状態で、永遠に残ります」
「水原さん…」
「執着を捨てない限りは」
「執着…」
「片桐さんに聞きますが、その女性の事を忘れない理由はなんですか?」
「それは…そうだろう…私は、とても愛していたんだ」
「ええ。愛していたから、忘れられないんです」
伊織はゆっくりと言葉を選ぶ。
「人が誰かを忘れられないのは、縁が深いから」
「縁…」
「俺は、実は絵里奈のことは、再会するまで忘れてました。だけど、再び出会ったときに、全てを思い出しました。切なくなるような想いも、傷をつけたことも、彼女に振られたことも全て」
「…」
伊織は、一呼吸置いた。
「縁は、形を変えることもあると感じてます」
「いつか、彼女にまた巡り合える日が来るというのか?」
「それは、誰にもわかりませんが、少なくとも、その人と出会って、片桐さんが交わした想いは、忘れなくていいと思います。ただ…」
「ただ…」
「ただ、今は自由にしてあげるべきかと思います」
「自由…」
「その女性も、片桐さん自身も」
「…想うことが、縛ることになるのか…」
片桐は、しばらく何も言わなかった。
ただ、伊織の言葉のひとつひとつが、
胸の奥の固く閉じた場所に触れていくのを感じていた。
「そんなふうに、考えたことはなかったな」
「出過ぎたことを申しました。そろそろ失礼します」
伊織は、ベンチから立ち上がり、地下駐車場へと戻る。
背後で、片桐がつぶやく。
「私は、ただ…忘れたくなかっただけなんだ。彼女を忘れたら、自分まで消えてしまう気がして」
伊織は、何も言わずにその場を離れた。




