46.「少しお時間いただけますか」――地下駐車場の闇で、宿敵・片桐が銀狼(伊織)に乞うた“最後の対話”。
篠崎は会場へ戻る途中、廊下の壁に寄りかかって立っている片桐を見つけた。
「片桐常務」
声をかけながら歩み寄る。
「……篠崎か」
「何かあったのですか?」
片桐の片方の頬が、わずかに赤いように見えた。
「いや。何でもない。少し休んでいただけだ」
「そうですか」
篠崎は会場の方へ視線を向ける。
遠くから、ざわめきがかすかに響いてくる。
「戻られないのですか?」
「……少し、外の風にあたってくる」
そう言い残し、片桐は去っていく。
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「篠崎くん」
会場に入り、自分の席へ戻ろうとしたところで、優子に声をかけられた。
「中村部長」
「もう戻るの? 片桐常務、見なかった?」
「さっき、すれ違いましたけど」
「席に戻ったら、だあれもいないの」
優子はそう言って、辺りをきょろきょろと見渡す。
その視線の先、少し離れた場所に伊織の姿があった。水原も一緒だ。
「水原さんたちなら、あそこに」
「あ、ほんとだ」
優子は軽く手を挙げると、そのまま伊織たちのほうへ向かっていった。
篠崎は一人、席へ戻る。
こういう場は、正直なところ苦手だった。
だが部長という立場上、姿を消すわけにもいかない。
篠崎が預かっているのは内部統制部門だ。
部下は数名しかおらず、その中にはかつて水原にちょっかいを出し、降格された田崎もいる。
必然的に、他部署の社員と親しく交わる機会は少ない。
社内でもどこか孤立した存在だった。
だが、篠崎はそれでも良かった。
今や直木賞作家となった伊織とは、あの一件以来、連絡を取り合っている。
伊織の執筆の妨げになるので、電話をすることは滅多にないが、ラインでのやりとりは結構な頻度だ。
一人でグラスを傾けていると、伊織たちが席に戻ってきた。
「ああ、疲れた」
優子は席につくと、自分のグラスにクラウディ・ベイを注ぐ。
淡い黄金色の液体が、静かにグラスを満たした。
「これ、好きなのよ」
そう言ってひと口含み、わずかに目を細める。
篠崎は、ワインを飲んだことが無かった。どういう味なのか、想像もつかない。
水原も同じものを飲んでいるようだ。
伊織は、篠崎と同じくプレミアムモルツを飲んでいる。
伊織もワインの事はよく知らない。
あの一件の後、伊織と水原によく飲みに連れて行ってもらった。
伊織はいろいろな酒を飲んでいたが、ワインだけは飲んでいなかった。
優子と絵里奈が女同士の話を始める。
「ていうか、絵里奈…最近、どうなのよ?」
「何が?」
「…ちゃんと、伊織さんと、してるの?」
「いきなり、何よ」
「まあ、このつやつや肌を見れば、一目瞭然ね」
「そういう優子は、どうするの?これから」
「そうね…大作家に抱かれれば、潤うかな?私も」
優子が、潤んだ眼で、伊織を見てきた。
酔いが回っている優子に絡まれそうな雰囲気だった。
伊織は席を立つ。
「今のうちに、荷物を部屋に運んでおく」
今日は、マイバッハから部屋に運ぶ物があるのだ。
「え?いいの?」
「やっておくよ、座ってて。たまには女同士の話もあるでしょ」
伊織は、道すがら話しかけてくる社員達に挨拶をしながら、足早に会場を後にした。
その後ろ姿を見て、優子が言う。
「…絵里奈は、ほんといい旦那さん持ったね」
「ふふ、伊織は、とっても優しいんだよ」
「優しい、ねえ…」
優子は、空になったグラスにクラウディ・ベイを注ぐ。
篠崎は、黙ってグラスのビールを飲んでいた。
「絵里奈も飲んで、飲んで」
「飲んでるわよ」
「はあ、私もそろそろ、いい男つかまえようっと」
絵里奈は小声で問いかけた。
「木崎さんとは最近、どうなの?」
優子は、ふっと笑った。
「…ふん、あの人、今になって、一緒に住もうか、とか言ってくるのよ」
「ええ?木崎専務が?」
「この間、久しぶりにプライべートで会ってね…」
「そう、言ってきたのね?」
「うん…でも、さ」
「でも?」
「今更、ねえ」
絵里奈は二人の間に子供がいるのを知っていた。
確か大学生くらいにはなったはずだ。
「好きじゃないの?」
「好き…かあ、もうなんかあの人も、そんな感じじゃないわよね」
ため息が時を刻む。
「まあ、いつか、いい男捕まえるわ」
「いるといいわね」
「ところで、片桐常務は?戻ってこないね」
「…知らない」
少しだけムスッとした絵里奈の表情を、優子は見逃さなかった。
「なに、なにかあったの?」
「実は…さっき廊下でね…」
優子にいきさつを話しはじめた。
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会場の外へ出て、駐車場に停めてあるマイバッハへ向かう。
地下へ続く階段を降り、重い扉を押し開けて地下駐車場に入った。
スタッフから聞いていた場所へ歩いていくと、柱に背を預けるようにして片桐が立っていた。
「あれ…?」
「…おや」
視線がぶつかる。
「片桐…さん、でしたよね?」
「水原さん。こんなところで何を?」
マイバッハのトランクに積んである荷物を取りに来たのだと説明する。
「なるほど。わざわざご自身で運ばれるんですね」
「まあ、自分たちの荷物ですから」
短い沈黙が落ちたあと、片桐が何かを決めたように口を開いた。
「水原さん、少しお時間いただけますか」
伊織は静かに頷く。
片桐は「こちらへ」とでも言うように軽く顎を動かし、外へつながる通路へ歩き出した。
伊織は余計な言葉を挟まず、その背中を追った。




