45.「いい加減にして!」――愛する夫を愚弄した片桐常務への鉄槌。そして、専務をも脱帽させた銀狼の器。
黒い怒りがこみ上げてくる。
なぜ、この場で、伊織に、あんな事を言うのだ。
絵里奈は、化粧室で鏡と向き合う。
だが、冷静になれなかった。
大切な伊織を、侮辱されているような気がした。
許せない。
化粧室から出ると、ちょうど廊下で、片桐とすれ違う。
絵里奈は、足を止めた。
「片桐常務、さっきのあれは、何ですか?」
「さっきの…ああ、あれか」
「何故、主人を、伊織を侮辱するような真似を」
「侮辱などしていない、ただ、知っているのかを聞きたかっただけだ」
今日の片桐は、酔っているのか、普段より、口調が軽い感じがしていた。
「今日のこの場で、言うような事なのですか?」
「ああ、まあ、悪かった、悪かった」
片桐は、やはり今日はいつもと違う。
「そんなに、怒るな、綺麗な顔が台無しだ」
「…失礼します」
これ以上話をしても、腹が立つだけだろう。
立ち去ろうとする絵里奈の腕を、片桐は掴んだ。
「離して」
「…あの男のどこがいいんだ?」
絵里奈は、片桐の手を振りほどく。
無視して、絵里奈は歩き始めるが、片桐が立ちふさがってくる。
「そこをどいて」
「まだ、話は終わっていない」
「私はもう用事は無い」
「何故だ。何故君のような女性が、あんな男と」
あんな男。
はっきりと片桐はそう言った。
「君にはもっとふさわしい男がいるはずだろ?」
絵里奈は、しつこく食い下がってくる片桐の頬を張り飛ばした。
「っ…」
「いい加減にして」
片桐は若干よろめきながら、絵里奈に打たれた頬を手で押さえている。
「絵里奈」
伊織が、小走りで駆け寄ってきた。
片桐の様子を見て、伊織が言った。
「どうした?何かあった?」
「なんでもない…行きましょ」
絵里奈は伊織を手を引いて、立ち去ろうとする。
片桐が、頬を押さえたまま、笑い始める。
「ははは…ははは…」
「…なにが可笑しいの」
絵里奈が振り向く。
片桐は、頬を押さえたまま、肩を震わせて笑い続けていた。
その笑いは、愉快というより、どこか壊れた玩具のように不気味だった。
「……可笑しいさ」
片桐はゆっくりと顔を上げた。
赤く腫れた頬の片側だけが歪んでいる。
「君が本気で怒るなんてな」
絵里奈の眉が、わずかに動く。
「何を言っているの」
「水原GMが誰かのために感情を露わにするなんて、珍しいだろう?ああ……そうか。そういうことか」
片桐は、酒の匂いをまといながら、にやりと笑った。
「君は本当に、その人に惚れているんだな」
「もういいわ、行こう、伊織」
絵里奈は伊織の手を引き、まだ夜のざわめきが続く廊下の先へ歩いていった。
テーブル席に絵里奈と戻ってきた。
「絵里奈、大丈夫か?」
そっと絵里奈の横顔を覗き込んだ。
「ええ…少し落ち着いた」
席には、篠崎も優子もいなかった。
「俺もトイレに行ったら、廊下にいたから」
「うん…ちょっとね、さっきの話はね」
絵里奈はいきさつを簡単に話してくれた。
「それで、頬を押さえていたのか」
「許せない、伊織のことをばかにして」
「酔ってたんじゃない?俺の事も怒らせようとしてたけどね」
「なんのために?」
「んー、それは分からないけど」
話していると、優子が戻ってきた。
「あー、疲れるわ、ほんと、爺さんたちの相手は…」
「お疲れさま、優子」
「絵里奈も挨拶回りしてきたら?みんなご主人ともども興味津々よ」
「…そうね、行きましょ、伊織」
「了解」
絵里奈の後に続くようにして、席を立つ。
テーブル席を絵里奈と共に巡り、次々と会社の役員であろうと思われる社員に挨拶をしていく。
中には、本を手にサインを求めてくる者もいた。
出版社の担当者に考えてもらったサインを本に書いていく。
挨拶が一通り終わって、席に戻ろうとすると、一際甲高く大きな声をかけられる。
「絵里奈ちゃーん!」
「木崎専務」
「ご無沙汰やね~、元気やった?」
「はい、おかげさまで」
専務と呼ばれた関西弁の男が、こちらに気づいた。
「お、このお方は、噂の…」
「はい、専務。夫の伊織です」
「うおお、生や!生、銀狼や!握手してくれへんか?」
差し出してきた手を握り返す。ちょっと汗ばんでいて、若干だが不快だ。
「初めまして、水原です」
「あ、うお、せやな、まだ自己紹介しとらんかったがな」
そういうと、スーツのポケットから、名刺を取り出す。
「ワシ、木崎いいまんねん、よろしゅう」
うやうやしく名刺を受け取ると、内ポケットにしまった。
「しかし…あれやな…こうしてみると、ホンマ綺麗やね…絵里奈ちゃんは年とらへんなあ」
「ありがとうございます」
「旦那もイケメンで。うらやましいこっちゃ」
片桐と違って、腹を読ませにくい。
何を考えているのか分からないタイプで、策を講じるのが好きだろう。
「あと、な…水原さん」
「はい」
「篠崎の件、すまんかった」
いきなり、木崎が頭を下げてくる。
「いきなり、どうしたんですか?」
「いやあ、実はワシがあんな真似させたんや」
絵里奈が横で驚きを隠せない表情をした。
「いや、なに、会社で噂になってる銀狼っちゅうのがどんな奴か知りたかったんや」
「はあ」
「だが、そんな、こすい真似せんと、本人に会わせてくれって絵里奈にちゃんに頼むべきやったな」
絵里奈がそれを聞いて答えた。
「言っていただけば、紹介させていただいたものを」
木崎は絵里奈の答えに頷いた後、今度は、伊織に向かい、さらに続けた。
「それに、篠崎にはなんも詮索せんと、不問に処したそうやないけ」
「はい、私も昔サラリーマンだったものですから、上の命令なら仕方ありません」
「イケメンな上に、度量もあって、才能もある。こりゃ、絵里奈ちゃんも惚れるわ」
「恐れ入ります」
「まあ、まだ時間があるから楽しんでいってな」
「はい、ありがとうございます」
軽く会釈をすると、木崎は立ち去っていった。




