44.「全て知っています」――宿敵・片桐の卑劣なマウントを、銀狼(伊織)が静かに粉砕した夜。
「絵里奈…」
「何?」
伊織はプレートに目配せして、微笑みを崩さないままの絵里奈に尋ねる。
「片桐って、例の…あの人?」
「…本当だ。今、多分、あの辺にいると思う」
会場の中央付近に立ったまま、数人で談笑をしたり、挨拶を交わしているグループがある。
「おお…いかにも、お偉いさんって感じだね」
「伊織…なるべく、しゃべらないでね」
「うん」
「あなたは、黙っているだけで恰好つくんだから、お願いね」
「分かってるってば…」
ブザー音が鳴る。
パーティーがいよいよ始まるようだ。
「伊織…頼むわよ」
絵里奈が念を押してきた。
…皆様、お待たせしました。
これより、グローバルリンクジャパン株式会社、創立記念パーティーを開催したいと思います。
司会は、私、総務課の…
「絵里奈、お疲れ〜」
軽妙な感じで、優子がテーブル席につく。
少し遅れて、篠崎が絵里奈の対面に座った。
「あれ、まだ、飲んでなかったの?」
先ほど、司会が乾杯の音頭を取ったばかりだった。
「優子が来てから、と思って」
ホテルのスタッフが絵里奈のグラスにクラウディ・ベイの白を注ぐ。
続けて、優子のグラスにも注いだ。
「僕はこれで」
篠崎はそう言って、プレミアムモルツを指示した。
「伊織はどうするの?」
絵里奈が横を向いて尋ねる。
「…ビールで」
スタッフが、篠崎と伊織のグラスに、ビールを注いだ。
優子が三人を見渡して言った。
「片桐常務は、多分あいさつ回りで遅いから、始めましょう」
「そうね」
乾杯、とグラスを軽く持ち上げる。
伊織は身を乗り出して、グラスをぶつけてこようとしている。
絵里奈は、伊織の右足を抓る。
「いて」
「…グラスは、軽く上げるだけ」
伊織は、気を取り直して椅子に座りなおす。
「あれ、ご主人、お酒飲んでも平気?」
優子がワイングラスを一口飲んだ後、伊織に尋ねてくる。
「今日は、ここの最上階の部屋取ってあるのよ」
答えようとした伊織を制して、絵里奈が答える。
「最上階?スイートじゃん。さすがセレブは違うね」
優子が冗談めかして言うと、周囲の空気がふっと和む。
伊織は、ビールのグラスを両手で包むように持ちながら、どこか落ち着かない様子だった。
「伊織さん、緊張してます?」
篠崎が尋ねる。
「してない」
篠崎が思わず吹き出した。
即答したものの、その返事が早すぎて、逆に緊張がバレている。
「それにしても、絵里奈のご主人、直木賞って凄いわね」
「…伊織で、いいですよ」
少し、緊張がほぐれてきたのか、優子にそう返した。
「篠崎君とは知り合いなんでしょ?」
「ええ。数少ない友人の一人です」
優子の質問に言葉少なめに、伊織は答えていく。
今のところ、変なことはしていない。
絵里奈は、少しだけ安心した。
その時だった。
優子が小声でつぶやく。
「来た。片桐常務」
絵里奈は姿勢を正し、伊織に膝の上にそっと手を置く。
「伊織、お願いね」
片桐が、ようやく終わった、といった感じで目の前の椅子に座った。
絵里奈は横で静かに微笑んでいた。
「片桐常務。お疲れさまです」
その瞬間、片桐と一瞬目があった。
「水原GM、中村部長、篠崎部長、お疲れ様」
片桐は、一人ずつ目を合わせて言った。
そして。
「初めまして。グローバルリンクジャパン株式会社の片桐と申します」
片桐の声は、低めではあったが、中音域を混ぜたようだった。
「初めまして。水原です」
「改めて、乾杯」
「乾杯」
伊織は、グラスを軽く持ち上げた。
右隣から、絵里奈の視線を感じる。うまくやって、と。
早速、片桐が仕掛けてくる。
「噂はかねがね聞いていました、銀狼、でしたっけ」
「…」
「あれ以来、うちの社員もメルセデスに憧れる者が増えました」
「…」
「それと、直木賞受賞おめでとうございます」
「…ありがとうございます」
「…水原GM、ご主人は、無口なお方なのかな?」
「いえ、今日は、緊張しているだけです」
絵里奈がフォローする。
「ほう、じゃあ、普段はどんな感じなのかな?」
伊織は、先程から値踏みされているのに気づいていた。
何か言い返してやってもいいが、このフォーマルな場では、分が悪い。
「伊織さんは、楽しいお方ですよ」
片桐の隣に座っている篠崎がそう言う。
「篠崎部長とは、親しいのかね?」
「…はい、数少ない友人の一人です」
「ほう」
伊織の前の空いたグラスに、片桐がビールが注ぐ。
「ありがとうございます」
「ところで…水原さん」
「はい」
「彼女の事は、どこまで知っているのでしょうか?」
「…どういう意味です?」
空気が張りつめるのを感じた。
「水原GMの事を、知っていて、ご結婚なされたのかな、と」
挑発されているようにも思うが、こちらの反応を見ている。
絵里奈が反応する。
「片桐常務、それは…」
絵里奈を遮って、伊織は言った。
「はい、全て知っています」
「…なるほど、隠し事は無し、いうことですね」
片桐がグラスに注がれたクラウディ・ベイの白に口をつける。
「ということは、当然私の事もご存じというわけですかね」
絵里奈と寝たことがある、と言いたいのだろう。
ここで俺を怒らせる意味は何だろう。
「…と、言いますと?」
わざと知らないふりをして聞き返す。
「おや、さすがに聞いておりませんでしたか。実は、私」
「片桐常務」
絵里奈が横から、割って入る。
その口調は、まさに氷の薔薇にふさわしい、冷たさを含んだトーンの声だった。
「おお、これはこれは、大変失礼した。私も酔ってしまったようだ」
伊織が知る限り、目の前のワインを一口しか飲んでいない。
場が、しん、と静まり返っている。
「少し失礼するよ」
そういうと片桐は席を立った。
伊織はふっと、息をつく。
隣の絵里奈を見ると、怒りを押し殺したような表情をしている。
「…この場で言うことじゃないでしょ」
ぼそっとつぶやく声が聞こえた。多分伊織にしか聞こえない。
篠崎と優子は、楽しそうにグラスを傾けていた。
「絵里奈…気にするなって」
伊織は、落ち着かせようと声をかけた。
「…ちょっと、トイレ行ってくる」
絵里奈は席を立つ。
伊織は、グラスのビールの飲み干すと、クラウディ・ベイの白を注いだ。




