43.「帰りたい」――直木賞作家の甘えと、氷の薔薇の微笑み。全社員が息を呑んだ“恋人繋ぎ”の行進。
会場の扉が静かに開いた瞬間、ざわめきがまるで風が止むように引いた。
最初に姿を現したのは伊織だった。
チャコールグレーのスリーピースが、照明を受けて鈍く光る。
その半歩後ろに、絵里奈。
黒のオフショルダーが、彼女の白い肌を際立たせていた。
歩くたびに揺れる布が、月の光のようだった。
彼女が一歩踏み出すたび、周囲の視線が吸い寄せられていく。
「あれ…水原GMじゃない?」
「チョー綺麗…やばい」
「隣、旦那さん?」
「直木賞作家よ、あの人、知ってた?」
「知ってる…ていうか、めちゃくちゃ格好良い」
丸いテーブル席に先に座っていた参加者たちの囁き声が広がっていく。
二人は、誰よりもゆっくりと歩いていた。
急ぐ必要などないというように。
その歩幅は自然で、呼吸のリズムまで揃っているように見えた。
伊織は、絵里奈の歩調に合わせて、ほんのわずかに手を添える。
触れているか触れていないか分からないほどの距離で、しかし確かに彼女を導いていた。
会場の中央付近では、役員たちが立ち上がり、若手社員たちは息を呑んだまま動けずにいる。
絵里奈は、ただ静かに微笑んでいた。
伊織が絵里奈にしか聞こえない声でつぶやく。
「あの…すげーみんな見てくるんだけど…」
「しーっ、席に着くまでしゃべらない」
小声で答える。
「席、どこ?…薄暗くて」
「そのまま、まっすぐ行って、左側のテーブル席」
伊織は、さっきまで、ほんのわずかに手を添えるだけだったが、手を握ってくる。
驚くほど温かい。緊張しているのが分かる。
絵里奈は、横目でそっと彼を見上げる。
「……緊張してるの?」
「やばいって…こんなに見られたの初めてだし」
声は小さいのに、どこか拗ねたような響きがあって、思わず笑いそうになる。
「みんな、伊織に見惚れてる」
「……それはない」
「ほら、見て」
二人が歩くたび、周囲の視線がまるで磁石のように吸い寄せられていく。
役員たちは姿勢を正し、若手社員たちは息をするのも忘れたように見つめている。
伊織はまた、小声でつぶやき始める。
「…帰りたい」
「だめ。主役なんだから」
「主役は絵里奈だよ」
その小さなやり取りの間にも、二人は会場の中央へと近づいていく。
そして、左側のテーブル席が見えてきた瞬間、伊織は絵里奈の手を離すどころか、逆に指を絡めてきた。
「ちょ、ちょっと……」
「薄暗いから、迷う」
「迷わないわよ、すぐそこよ」
「どこに行くか分からない」
その言い方があまりにも真剣で、絵里奈はつい吹き出しそうになった。
「分かったわ。じゃあ、席まで案内してあげる」
「頼む」
二人は、指を絡めたまま席へと向かう。
その姿は、ただの夫婦そのものだった。
しかし周囲の目には、その自然さがいっそう眩しく映っていた。
テーブル席には、名前が書かれた三角プレートが置いてあった。
高級感のあるステンレス調で、「水原伊織」と書いてある。
その隣には、水原絵里奈。
絵里奈に導かれるようにして、テーブルにたどり着いた伊織は、
水原絵里奈と書かれたプレートの席の椅子を引く。
絵里奈は、椅子にゆっくりと座った。
続けて、隣の椅子を引いて、伊織も座った。
入口から一番奥の中央から少し離れた左奥の5人がけのテーブルだった。
会場の端に寄り添うように置かれたその席は、中央の華やかさを斜めに眺める位置にあり、
会場全体の広がりが一望できた。
まだ、このテーブルには、伊織と絵里奈しか座っていない。
伊織は、他の席に置いてあるプレートを眺める。
絵里奈の斜め右側に「中村 優子」と書いてある。さきほどの受付の女性だろう。
絵里奈の前には、「篠崎 海斗」。海斗の事だ。
あの一件以来、仲良くなった。数少ない友人の一人だ。
そして、伊織の前には「片桐 誠一」と書いてあった。




