42.「格が違う」――誇らしげなメルセデスを霞ませるマイバッハの再臨。全社員が息を呑んだ水原夫妻の凱旋。
優子は、ホテルのエントランスで受付をしていた。
名簿を片手に、社員とその家族を次々と案内しながら、ふと眉をひそめる。
今日は、やたらメルセデスが多い。
創立記念パーティーの会場となるホテルのロータリーには、 すでに数台のメルセデスが並んでいた。
白、黒、シルバー。
どれも新車のように磨き上げられ、 オーナーたちはどこか誇らしげに車を降りていく。
「またメルセデス……」
優子は、受付用の名簿をめくりながら小さくため息をついた。
社内では、伊織が乗っていたSクラスは、銀狼と呼ばれ、事故の件も相まって、妙な伝説めいた扱いを受けていた。
そのせいで、若手社員を中心にメルセデス購入者が急増したのだ。
ほんと、影響されやすいんだから、と優子は思った。
ホテルの前では、新しいEクラスを自慢げに眺める若手社員がいた。
その隣では、後部座席から子どもがはしゃいで降りてくる。
受付の横では、別の社員が同僚に向かって興奮気味に話している。
「今日、水原夫妻も来るらしいよ」
「ってことは、本物の銀狼か?」
「マジか、滅多に人前に姿を見せないらしい、見られたら運がいいって噂だぞ」
「ていうか、直木賞受賞作家なんでしょ?水原GMの旦那さんって」
優子は、その会話を聞きながら苦笑していた。
時計を見ると、もうそろそろ、パーティーが始まる時間だった。
絵里奈、まだ来てないな。
そんなことを考えた瞬間、ロータリーの奥から、ひときわ静かなエンジン音が近づいてきた。
次の瞬間、黒い影がゆっくりと姿を現した。
メルセデス…マイバッハ。
ホテルのライトを受けて、艶やかなボディが静かに光を返す。
周囲のざわめきが、一瞬だけ吸い込まれたように止まった。
「……はあ?」
優子の口から、思わず素の声が漏れた。
メルセデスの列が、まるで背景に引っ込んでいく。
格が違う。
そんな言葉が、嫌でも頭に浮かぶ。
(ちょっと待ってよ……まさか)
受付のスタッフがざわつき始める。
「え、メルセデス…マイバッハ?あれ、マイバッハじゃない?!」
「社長じゃないですよね?」
「誰が乗ってるの……?」
マイバッハが完全に停車し、ドアが静かに開いた。
チャコールグレーのスリーピースのスーツを着た男が運転席から降りてきた。
写真でしか見たこと無かったが、水原の夫である伊織だろう。
そのまま後部座席のドアを開ける。
車の存在感に負けないほど自然に馴染んでいる動作だった。
(なんなの、この人。銀の狼というより、王様みたいなんだけど)
そして、黒のオフショルダードレスを纏った絵里奈が、伊織に手を引かれて、
後部座席からゆっくりと降りて、姿を見せた。
その姿は、月から降りてきた女神のようだった。
(絵里奈、もう今日はこれで全部持っていったわね)
ゆっくりと歩く二人に、社員たちの視線が一斉に向かい、まるで、伝説の人物でも見たかのように道を開けていく。
憧れ、驚き、嫉妬、尊敬。
いくつもの感情が混ざったざわめきが、波のように広がっていく。
二人は受付の優子の前に並んだ。
「今日の主役の登場ってわけね」
「優子、お疲れ様」
優子は、名簿の欄にチェックを入れる。
水原絵里奈、水原伊織。
顔を上げて、伊織の方を向いた。
「はじめまして、中村といいます」
「水原です」
低い声が印象的だった。
「いつも絵里奈にはお世話になっております」
「こちらこそ」
見れば見るほど、いい男だった。
伊織の纏う空気は、威圧的ではないのに、自然と周囲を静かにさせる力があった。
優子は、名簿を閉じながら、姿勢を正した。
「それじゃあ、会場はあちらになります。どうぞごゆっくり」
そう言いながらも、優子の視線はつい絵里奈へと向かう。
黒のオフショルダーに包まれた肩のラインは、華奢なのに凛としていて、
歩くたびに揺れるイヤリングが、まるで月光を宿しているようだった。
「ありがとう、優子。あとでまたね」
絵里奈が微笑む。
その笑顔は、以前よりもさらに柔らかくなり、どこか深みが増していた。
隣に立つ伊織の存在が、彼女の輪郭をより鮮明にしているように見える。
二人が会場へ向かって歩き出すと、周囲の社員たちは自然と距離を取り、静かにその背中を目で追った。
「…すごい」
受付の後輩が、ぽつりと呟いた。
「そりゃ若手がメルセデス買い始めるのも分かる気がするわ」
優子が言う。
「マイバッハはさすがに誰も真似できませんよね」
「あれは、別格」
優子はロータリーに視線を戻した。
さっきまで誇らしげに並んでいたメルセデスたちが、霞んで見える。
そのとき、横から声がした。
「中村さん、あれ本当に水原GMの旦那さんなんですか?」
振り返ると、興奮気味の若手社員が立っていた。
目はまだ、会場へ消えていった二人の背中を追っている。
「そうよ。写真より実物のほうが、かっこいいわね」
「なんか、オーラがすごすぎて」
「でも、今日の主役は、横に並ぶ女神様ね」
時計を見る。パーティーの始まる時間だった。
優子は、受付を引き継ぐと、今まさに会場に入ろうとしている二人の後を追った。




