40.「私が面倒見てあげる」――直木賞作家となった夫(銀狼)と、夜の静寂で重なり合う氷の薔薇の「潤い」。
絵里奈はGM室の机の上に置いたカップの湯気がゆっくりと揺れるのを眺めていた。
午後の柔らかな陽が窓辺に差し込んでいた。
今日は、特にやることが無い。
そういう時は、窓から見える景色をぼうっと見てるのが好きだった。
こういう一人の時間も大切なのだ。
しばらく、椅子から窓を眺めていた。
GM室のドアがノックされる。
「水原GM、よろしいでしょうか」
支店長だった。
「どうぞ」
絵里奈はそう言うと、支店長は部屋に入り、ドアを静かに閉めた。
しばらく言葉を探すように沈黙が続いた。
「先日の件ですが」
絵里奈は、黙っていた。
「水原GMが、あそこまで、お怒りになる姿を初めて見ました」
それを聞いた絵里奈は、椅子から立ち上がり、頭を下げた。
「…申し訳ありません、見苦しいところを見せてしまいました」
ドアの外まで、田崎を詰める絵里奈の声が聞こえていたのだ。
「はい。正直、驚きました。でも……」
支店長は深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「支店長。貴方はすでに、自分の意志を持っています。その意志を貫くために、何が必要か、何を利用するか」
「GM…」
「そこをよく考えてくだされば結構です」
「分かりました」
支店長はそこまで言うと、出ていった。
部屋に静けさが戻ると、絵里奈はそっと息を吐いた。
窓の外は、いつの間にか夕暮れの色に変わっていた。
その日は全員が帰るのを確認してから、セキュリティーをかける。
エントランスから振り返ると、伊織がいた。
「伊織…」
「迎えに来たよ」
伊織は人目を憚らず、絵里奈を抱きしめる。
直木賞受賞作家となった今でも、伊織は変わらなかった。
伊織と腕を組んで歩きだす。
「伊織、仕事、進んでいる?」
「書くのは、絶好調だよ、ただ」
「ただ?」
「売れるかどうかは分からない」
水原伊織3作目となる今回は、今までの作品と全く異なる世界観を構築していた。
恋愛をモチーフにしたテーマから、一気に角度を変え、歴史ものを書きはじめた。
「まあ、売れなくても仕方がないんじゃない?書きたいことを書くんでしょ?」
そう言うと、伊織は答えた。
「正直言うと、今満たされていてさ」
「うん」
「恋愛がテーマだと、書き辛くなってきたんだ」
「そうなんだ」
伊織の小説は、ストーリーとしては、ベタなのだが、満たされない想い、というのが、一環して書かれているテーマである。
今までの伊織自身の経験や、想いが形となったかのようだった。
「まあ、別に直木賞受賞したからといって、永遠に書き続ける必要も無いし、嫌になったら辞める」
「そうね」
歩道を歩く2人を月明かりが照らす。
「もし、そうなったら、私が面倒見てあげるからね、先生」
「いえいえ、ご心配には、及びませぬ」
マンションが見えてきた。
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薄明かりの中で、指を絡め合う。
肩が触れ合う。
伊織が何度も唇を重ねてくる。
受け入れる準備は出来ていたが、まだ伊織は入ってくる気配は無い。
若い頃のような体力は無いはずだが、欲求は変わらないようだ。
今でも伊織は、度々求めてくる。
それが、絵里奈には嬉しく感じた。
それに、こうして抱き合う事で、身体が潤いを失わなくて済むような気がするのだ。
胸元に、温もりが寄り添う。
ようやく、ゆっくりと入ってくる。
「伊織…ねえ…」
「…なんだい?」
さざなみの様な動きの中で、絵里奈は言葉を繋ぐ。
「…もっと…」
伊織は、頷く。
吐息が荒くなる。
薄明かりの中に、伊織の声が溶けていく感じがした。




