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薔薇の氷 -Relight-  作者: 水原伊織


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37.真摯

村口は、動画サイトの生配信を眺めていた。

画面には、直木賞受賞作家の贈呈式が映し出されている。

書店でその本を買って読んだとき、あの先輩がこんな文章を書くとは、とても信じられなかった。

だが今、画面の中央に立っているのは、紛れもなく伊織だった。

ただ――眼の色が、まるで別人のように違っている。

村口は、そう感じた。

動画はそのまま、伊織のスピーチへと移っていった。


----


「本日は、このような栄誉ある賞をいただき、心より感謝申し上げます。執筆を始めた頃、自分がこの場に立つ日が来るとは想像もしていませんでした」

伊織は時折、手元の紙を見ながら、淀みなく語り続けている。

「ただ、目の前の物語と向き合い、少しでも良いものを書きたいという思いだけでここまで続けてきました。今回の受賞は、私ひとりの力ではありません。支えてくださった編集の皆さま、読んでくださった方々、そして、日々の生活の中で私を励まし、見守ってくれた大切な人たちのおかげです。書くという行為は、いつも孤独で、時に自分の無力さに向き合う作業でもあります。それでも続けてこられたのは、誰かに届くかもしれないという希望があったからです。これからも、ひとつひとつの言葉に誠実でありたいと思います」


そこで、いったん言葉が途切れる。

束の間の静寂が流れた後、伊織が手元の紙を閉じて目の前を見据えた。


「…私は、ほんの数年前までは、地方の工場に勤務する、どこにでもいる一介のサラリーマンでした」


村口は、画面を見据えた。

「自分自身は、家族のため、それなりにやってきた自負はあります。しかし、どこかで常に葛藤を抱えていました。このまま、朽ち果てていく、そういう感覚がありました」

会場は、静まり返っている。

「一度離婚も経験し、絶望をしていました。そんなある日」

伊織の言葉が、真摯に伝わってくる。

「…今の妻と、出会いました。もっと言うと、再会しました。その時に言われました」

伊織の言葉は、深く、重く、会場に響いている。

「…死なないで、と」

村口は、画面を見ながら、涙を流していた。画面が滲む。

「あの言葉が無かったら、ここには立っていません。それから私は、自分の心に従うようにしました。皆様も迷ったり、絶望したりするときもあると思います。そんな皆様の救いになれば、と思い、今回の作品は書かせていただきました。そして、これからも書き続けていこうと思います。本日は本当にありがとうございました」


伊織が一礼をした。

会場は、割れんばかりの拍手に包まれていた。



祝賀会の途中だったが、地方から来ているという理由で、伊織は退出した。

「今日は本当にお疲れさまでした。お気をつけて」

担当者に声をかけて、帝国ホテルの玄関に向かう。

帝国ホテル正面玄関からタクシーに乗ると、日比谷通りを抜けて、東京駅丸の内側へ向かう。

タクシーを降りて、重洲側へ駅構内を横断していく。

八重洲中央口の手前にある新幹線乗り換え口の、青い光を見た瞬間ようやく帰る実感が湧いた。


新幹線に乗り込み、スマホを手に取る。

ふだんは通知を切っているラインを開くと、画面いっぱいに未読が溢れていた。

まずは何より、絵里奈にメッセージを送る。


起きてる?

勿論。

今、東京駅を出た。

了解。待ってるね。


この短いやりとりだけで、胸の奥がふっと落ち着く。

心が、自分の居場所へそっと戻ってきたような感覚だった。


その後は少し面倒に思いながらも、知り合いを含め、次々と届くラインに返信していく。


村口からも通知が来ていた。

感動しました、応援しています、今もまだあの会社にいます、本買いました――

言いたいことをすべて押し込んだような文面に、伊織は思わず苦笑した。


「仕事は順調か」と返す。

やりとりを続けているうちに、新幹線は目的の駅に滑り込んだ。


地方の駅は、深夜に近い時間のせいか、人影もまばらだ。

ホームを抜け、改札を通り、在来線側の通路を進んで出口へ向かう。

自分の足音だけが、やけに大きく響く。

そして――出口へ向かう角を曲がった、その瞬間だった。


絵里奈がいた。


壁際のベンチに腰掛け、両手を膝の上で組んでいたが、伊織を見つけると立ち上がる。


「おかえり」


いつもの声だった。日常の、変わらない声。

それが今日は、ひどく胸に染みた。


「ただいま」


絵里奈が近づき、自然な仕草で腕を組んでくる。


「このまま、どこか行こうよ」


その言葉で、伊織は自分が何も食べていなかったことに気づく。

午前0時を過ぎていたが、まだ灯りのついている店はいくつかある。


「それとも…帰りたい?」

「いや、二人で祝杯をあげよう」


伊織は、絵里奈と腕を組んだまま、静けさの漂う夜の街へ歩き出した。


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