表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
薔薇の氷 -Relight-  作者: 水原伊織


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

36/38

36.光の中へ

今日は直木賞の選考会がある。もし仮に伊織が受賞した場合、都内へ向かわなければならない。

これまで彼は徹底してコメントのみで対応し、人前には一切姿を見せてこなかった。だが、直木賞となれば、さすがにそうもいかない。

「受賞した場合は夕方頃に連絡しますので、一応待機しておいてください」

そう編集部から言われていた。

正直、受賞はないだろうと思っている。

それでも、万が一に備えておく必要はあった。

今日は土曜日。

仕事部屋には念のためスーツを用意し、昼過ぎになって絵里奈の部屋へ向かった。


----


絵里奈が耳元で、吐息交じりに囁く。

「まだ…昼なのに…」

それには答えず、指を絡めて、唇を重ね合った。

指先がかすかに触れる。

薄暗くした部屋の中に、吐息が響く。

肩越しに触れ合い、なだらかな曲線を描く。空気が揺れる。


昼下がり、伊織は絵里奈と抱き合っていた。

伊織は、いつもこの時間が永遠に続けばいいのに、と思う。

だが、途切れるからこそ、また次の時間が待ち遠しくなる。

無我夢中で伊織は、時間を貪っている。

枕元には、スマホが2台並んで置いてあった。


----


ふと目を覚ます。

もう夕方だろうか――そんな感覚で枕元のスマホを手に取ったが、着信はなかった。

絵里奈の姿は見当たらず、足元には自分の服だけが無造作に残されている。

トランクスとTシャツを身につけ、着替えを手に寝室を出た。

リビングでは、絵里奈がソファに座っていた。

すでに部屋着に着替え、髪にはタオルを巻いている。

「シャワー、浴びてきたよ」

軽く振り返りながら言う絵里奈に、伊織は冗談めかして返す。

「もう一回する?」

「バカ」

そう言って、絵里奈はコーヒーカップを口に運んだ。

テーブルには、もうひとつカップが置かれている。

「それ、飲んでいいよ」

「ありがとう」

伊織はその隣に腰を下ろした。

その時、テーブルに置いていた伊織のスマホが鳴った。


絵里奈と視線を交わす。

手を伸ばして画面を見ると、表示されているのは出版社の番号だった。

伊織は慌てず、一度だけ深く息を吸い、通話ボタンを押す。


「もしもし」

「おめでとうございます!」

担当者の弾んだ声が、耳の奥に響き渡った。


「受賞式は十九時から帝国ホテルで行いますので、それまでにお越しください」

通話を終え、伊織はすぐにスマホのナビを開いた。

絵里奈の部屋からは、どう急いでも二時間以上かかる。

時計を見ると、すでに十六時を少し過ぎていた。

「すぐに行かないと」

焦りを隠せずに言うと、絵里奈が立ち上がり、落ち着いた声で言った。

「伊織、気をつけてね。あとでスピーチの内容、考えて送るから」

「助かる」

短く返し、伊織は仕事部屋へ向かって駆け出した。

スーツを手に取る指先が、わずかに震えていた。


----


伊織は、胸の奥がざわつくのを抑えられなかった。

まさか本当に受賞するとは、夢にも思っていなかったのだ。

担当者との通話を終えると、ほとんど反射的に仕事部屋へ戻り、スーツへと着替える。

ネクタイを締める手がわずかに震える。

準備を終えると、駅へ向かって駆け出した。

外を走るのは、いつ以来だろう。

そんなことを考える余裕もないまま、ただ足が前へ前へと動いていく。


----


新幹線に飛び乗り、自由席の空いている場所を探す。

土曜日のこの時間、上り線は思ったより空いていた。

適当な席を見つけて腰を下ろす。


ほどなくして、絵里奈からスピーチ原稿がラインで届いた。

伊織は「ありがとう」と短く返信し、すぐに文面を暗記し始める。

人前で話すのは得意ではない。


送られてきた内容は、ありきたりと言えばありきたりだが、受賞式で奇をてらう必要などない。

むしろ、その普通さがちょうどいい。なんとなく大丈夫だとは思っている。


だが、アドリブだけは避けたかった。

真面目な場ほど、ついふざけたくなる癖があるが、今日は絶対にやらかすわけにはいかない。

スピーチの文面を何度も目で追っていると、車内アナウンスが目的地への到着を告げた。


----


新幹線を降りると、冷たい風が頬を打った。

東京駅を出てタクシーを拾い、車が日比谷通りへ入ると、帝国ホテルの外観がゆっくりと姿を現す。

本当に、自分が受賞したのか。

まだどこか現実味がない。

タクシーを降りてロビーへ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


柔らかな照明、磨き上げられた床、静かに行き交う人々。

受付スタッフが軽く会釈をし、その所作さえも洗練されている。


ロビーにいた担当者がこちらに気づき、慌ただしく駆け寄ってきた。

「水原先生、お疲れさまです。まずは控室へご案内します」

スマホを片手に、次々と連絡を捌いているようだ。

その忙しさが、受賞の現実味をさらに強める。


ロビーの奥へ進むと、足音だけが静かに響いた。

控室の前に着くと、担当者が扉を開ける。

「記者会見はこのあとすぐです」


伊織は小さく頷き、控室へ足を踏み入れた。

外の喧騒とはまるで別世界のような、深い静けさがそこに満ちていた。


控室でスマホを開き、絵里奈にラインを送る。


今、控室。


頑張って。終わったら連絡してね。


その短いメッセージだけで、張りつめていた緊張が少しほどけた気がした。


控室の扉がノックされ、スタッフが顔をのぞかせる。

「準備が整いました。会見場へご案内します」

伊織は立ち上がり、控室を出た。


廊下を進むにつれ、遠くからざわめきが聞こえてくる。

記者たちの話し声、カメラの調整音、ライトの微かな唸り。

そのすべてが、これから向かう場所の重みを告げていた。


会場の前で足を止めると、担当者が小声で言う。

「大丈夫です。ゆっくりで構いません」

「分かった……しかし」

「何です?」

「まだ、現実とは思えない」

その一言を残し、伊織は会場へ足を踏み入れた。


----


眩しい光が一斉に向けられた。

壇上に案内され、椅子に腰を下ろす。

マイクが目の前に置かれる。

司会者が紹介を始める。

「直木賞受賞者、水原伊織さんです」

拍手が起こる。

伊織は軽く会釈し、マイクに口を近づける。

「……本日は、このような賞をいただき、光栄に思います」


それからは、記者達が次から次へと質問をしてくる。

「受賞を知った瞬間のお気持ちは?」

「今回の作品は、どんな思いで書かれたのですか?」

「ご家族には、もう連絡されましたか?」

伊織は、ひとつずつ丁寧に答えていく。

ふと、絵里奈の顔が浮かんだ。

「支えてくれた人たちのおかげで、ここまで来られました」

そう言った後からは、会場の空気が柔らかくなった気がした。


記者会見が終わり、一度控室に戻ると、担当者が駆けつけてくる。

「このあとは、贈呈式です。スピーチのご準備をお願いします」

控室の空気は、先ほどよりも重く感じられた。

記者会見を終えたばかりだというのに、胸の奥の鼓動はまだ落ち着かない。

担当者が差し出したスピーチ原稿を受け取り、伊織は軽く目を通す。

絵里奈が送ってくれた文面が、紙の上で静かに息づいていた。

「大丈夫です。贈呈式は、会見より落ち着いた雰囲気ですから」

担当者の言葉に、伊織は頷く。

ここまで来ると、なぜか緊張しない。

扉がノックされる。

「水原様、贈呈式の会場へご案内いたします」

スタッフの丁寧な声に促され、伊織は立ち上がった。


控室を出ると、廊下には先ほどとは違う静けさが漂っていた。

「孔雀の間は、こちらです」

スタッフが示した先に、重厚な扉が見えた。

金色の装飾が施され、まるで別世界への入口のようだった。

扉の前で立ち止まる。

スタッフが扉に手をかける。

「それでは、どうぞ」

扉がゆっくりと開き、柔らかな光が伊織を包み込んだ。


----


扉が開いた瞬間、孔雀の間の柔らかな光が伊織を包み込んだ。

天井のシャンデリアが静かに輝き、金と琥珀の光がゆるやかに会場へ広がっていく。

その光の下では、選考委員や出版社の関係者が静かに席に着き、こちらを待っていた。

壇上へ続く階段を上る。

胸の内は、不思議なほど静かだった。

落ち着いている、というより、まだどこか現実味が追いついていない。


「直木賞受賞者、水原伊織さんです」


拍手が広がる。

伊織は壇上の中央に立ち、用意されたマイクの前で一瞬だけ目を閉じた。

絵里奈が送ってくれたスピーチの文面が、手元にある。

「……本日は、このような栄誉ある賞をいただき、心より感謝申し上げます」

声は落ち着いていた。

「支えてくださった方々のおかげで、今日の自分があります。

これからも、誠実に書き続けていきたいと思います」

言葉を終えると、再び拍手が起こった。

その音は先ほどよりも少しだけ大きかった。

壇上を降りると、担当編集者が小さく頷いた。

その表情には、安堵と誇らしさが混ざっているのが分かった。



贈呈式が終わると、会場はそのまま祝賀会の雰囲気へと変わった。

照明が少し落とされ、テーブルには白いクロスと花が飾られ、

シャンパンのグラスが静かに並べられている。


「水原さん、おめでとうございます」

「作品、拝読しました。素晴らしかったです」

次々と声がかかる。

出版社の重役、選考委員、作家仲間、編集者たち。

その一人ひとりと握手を交わしていく。

シャンパンのグラスを受け取り、軽く口をつける。

だが、飲みなれないせいなのか、緊張のせいなのか、味が全くしない。

ほんの数年前まで、地方の工場勤務だったはずだ。

変わり映えのしない毎日をただ家族のためだけに過ごしていた。


なんだ、これは。


伊織は、ここにいる自分が別人のように思えた。

ふと、スマホが鳴る。

絵里奈だ。

ラインを開く。


スピーチ、すごく良かったよ。終わったら電話してね。


早く声を聞きたい。

そう思いながらも、祝賀会はまだ続いていく。

「水原さん、こちらへどうぞ。写真を撮らせてください」

カメラマンが呼び、伊織は笑顔を作る。

フラッシュが何度も光り、その白さの中で、今日という日の現実がようやく形を持ち始めた。


また、ここから人生が変わるのかもしれない。


伊織は、スマホを手に取り、通話ボタンを押した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ