36.光の中へ
今日は直木賞の選考会がある。もし仮に伊織が受賞した場合、都内へ向かわなければならない。
これまで彼は徹底してコメントのみで対応し、人前には一切姿を見せてこなかった。だが、直木賞となれば、さすがにそうもいかない。
「受賞した場合は夕方頃に連絡しますので、一応待機しておいてください」
そう編集部から言われていた。
正直、受賞はないだろうと思っている。
それでも、万が一に備えておく必要はあった。
今日は土曜日。
仕事部屋には念のためスーツを用意し、昼過ぎになって絵里奈の部屋へ向かった。
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絵里奈が耳元で、吐息交じりに囁く。
「まだ…昼なのに…」
それには答えず、指を絡めて、唇を重ね合った。
指先がかすかに触れる。
薄暗くした部屋の中に、吐息が響く。
肩越しに触れ合い、なだらかな曲線を描く。空気が揺れる。
昼下がり、伊織は絵里奈と抱き合っていた。
伊織は、いつもこの時間が永遠に続けばいいのに、と思う。
だが、途切れるからこそ、また次の時間が待ち遠しくなる。
無我夢中で伊織は、時間を貪っている。
枕元には、スマホが2台並んで置いてあった。
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ふと目を覚ます。
もう夕方だろうか――そんな感覚で枕元のスマホを手に取ったが、着信はなかった。
絵里奈の姿は見当たらず、足元には自分の服だけが無造作に残されている。
トランクスとTシャツを身につけ、着替えを手に寝室を出た。
リビングでは、絵里奈がソファに座っていた。
すでに部屋着に着替え、髪にはタオルを巻いている。
「シャワー、浴びてきたよ」
軽く振り返りながら言う絵里奈に、伊織は冗談めかして返す。
「もう一回する?」
「バカ」
そう言って、絵里奈はコーヒーカップを口に運んだ。
テーブルには、もうひとつカップが置かれている。
「それ、飲んでいいよ」
「ありがとう」
伊織はその隣に腰を下ろした。
その時、テーブルに置いていた伊織のスマホが鳴った。
絵里奈と視線を交わす。
手を伸ばして画面を見ると、表示されているのは出版社の番号だった。
伊織は慌てず、一度だけ深く息を吸い、通話ボタンを押す。
「もしもし」
「おめでとうございます!」
担当者の弾んだ声が、耳の奥に響き渡った。
「受賞式は十九時から帝国ホテルで行いますので、それまでにお越しください」
通話を終え、伊織はすぐにスマホのナビを開いた。
絵里奈の部屋からは、どう急いでも二時間以上かかる。
時計を見ると、すでに十六時を少し過ぎていた。
「すぐに行かないと」
焦りを隠せずに言うと、絵里奈が立ち上がり、落ち着いた声で言った。
「伊織、気をつけてね。あとでスピーチの内容、考えて送るから」
「助かる」
短く返し、伊織は仕事部屋へ向かって駆け出した。
スーツを手に取る指先が、わずかに震えていた。
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伊織は、胸の奥がざわつくのを抑えられなかった。
まさか本当に受賞するとは、夢にも思っていなかったのだ。
担当者との通話を終えると、ほとんど反射的に仕事部屋へ戻り、スーツへと着替える。
ネクタイを締める手がわずかに震える。
準備を終えると、駅へ向かって駆け出した。
外を走るのは、いつ以来だろう。
そんなことを考える余裕もないまま、ただ足が前へ前へと動いていく。
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新幹線に飛び乗り、自由席の空いている場所を探す。
土曜日のこの時間、上り線は思ったより空いていた。
適当な席を見つけて腰を下ろす。
ほどなくして、絵里奈からスピーチ原稿がラインで届いた。
伊織は「ありがとう」と短く返信し、すぐに文面を暗記し始める。
人前で話すのは得意ではない。
送られてきた内容は、ありきたりと言えばありきたりだが、受賞式で奇をてらう必要などない。
むしろ、その普通さがちょうどいい。なんとなく大丈夫だとは思っている。
だが、アドリブだけは避けたかった。
真面目な場ほど、ついふざけたくなる癖があるが、今日は絶対にやらかすわけにはいかない。
スピーチの文面を何度も目で追っていると、車内アナウンスが目的地への到着を告げた。
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新幹線を降りると、冷たい風が頬を打った。
東京駅を出てタクシーを拾い、車が日比谷通りへ入ると、帝国ホテルの外観がゆっくりと姿を現す。
本当に、自分が受賞したのか。
まだどこか現実味がない。
タクシーを降りてロビーへ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
柔らかな照明、磨き上げられた床、静かに行き交う人々。
受付スタッフが軽く会釈をし、その所作さえも洗練されている。
ロビーにいた担当者がこちらに気づき、慌ただしく駆け寄ってきた。
「水原先生、お疲れさまです。まずは控室へご案内します」
スマホを片手に、次々と連絡を捌いているようだ。
その忙しさが、受賞の現実味をさらに強める。
ロビーの奥へ進むと、足音だけが静かに響いた。
控室の前に着くと、担当者が扉を開ける。
「記者会見はこのあとすぐです」
伊織は小さく頷き、控室へ足を踏み入れた。
外の喧騒とはまるで別世界のような、深い静けさがそこに満ちていた。
控室でスマホを開き、絵里奈にラインを送る。
今、控室。
頑張って。終わったら連絡してね。
その短いメッセージだけで、張りつめていた緊張が少しほどけた気がした。
控室の扉がノックされ、スタッフが顔をのぞかせる。
「準備が整いました。会見場へご案内します」
伊織は立ち上がり、控室を出た。
廊下を進むにつれ、遠くからざわめきが聞こえてくる。
記者たちの話し声、カメラの調整音、ライトの微かな唸り。
そのすべてが、これから向かう場所の重みを告げていた。
会場の前で足を止めると、担当者が小声で言う。
「大丈夫です。ゆっくりで構いません」
「分かった……しかし」
「何です?」
「まだ、現実とは思えない」
その一言を残し、伊織は会場へ足を踏み入れた。
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眩しい光が一斉に向けられた。
壇上に案内され、椅子に腰を下ろす。
マイクが目の前に置かれる。
司会者が紹介を始める。
「直木賞受賞者、水原伊織さんです」
拍手が起こる。
伊織は軽く会釈し、マイクに口を近づける。
「……本日は、このような賞をいただき、光栄に思います」
それからは、記者達が次から次へと質問をしてくる。
「受賞を知った瞬間のお気持ちは?」
「今回の作品は、どんな思いで書かれたのですか?」
「ご家族には、もう連絡されましたか?」
伊織は、ひとつずつ丁寧に答えていく。
ふと、絵里奈の顔が浮かんだ。
「支えてくれた人たちのおかげで、ここまで来られました」
そう言った後からは、会場の空気が柔らかくなった気がした。
記者会見が終わり、一度控室に戻ると、担当者が駆けつけてくる。
「このあとは、贈呈式です。スピーチのご準備をお願いします」
控室の空気は、先ほどよりも重く感じられた。
記者会見を終えたばかりだというのに、胸の奥の鼓動はまだ落ち着かない。
担当者が差し出したスピーチ原稿を受け取り、伊織は軽く目を通す。
絵里奈が送ってくれた文面が、紙の上で静かに息づいていた。
「大丈夫です。贈呈式は、会見より落ち着いた雰囲気ですから」
担当者の言葉に、伊織は頷く。
ここまで来ると、なぜか緊張しない。
扉がノックされる。
「水原様、贈呈式の会場へご案内いたします」
スタッフの丁寧な声に促され、伊織は立ち上がった。
控室を出ると、廊下には先ほどとは違う静けさが漂っていた。
「孔雀の間は、こちらです」
スタッフが示した先に、重厚な扉が見えた。
金色の装飾が施され、まるで別世界への入口のようだった。
扉の前で立ち止まる。
スタッフが扉に手をかける。
「それでは、どうぞ」
扉がゆっくりと開き、柔らかな光が伊織を包み込んだ。
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扉が開いた瞬間、孔雀の間の柔らかな光が伊織を包み込んだ。
天井のシャンデリアが静かに輝き、金と琥珀の光がゆるやかに会場へ広がっていく。
その光の下では、選考委員や出版社の関係者が静かに席に着き、こちらを待っていた。
壇上へ続く階段を上る。
胸の内は、不思議なほど静かだった。
落ち着いている、というより、まだどこか現実味が追いついていない。
「直木賞受賞者、水原伊織さんです」
拍手が広がる。
伊織は壇上の中央に立ち、用意されたマイクの前で一瞬だけ目を閉じた。
絵里奈が送ってくれたスピーチの文面が、手元にある。
「……本日は、このような栄誉ある賞をいただき、心より感謝申し上げます」
声は落ち着いていた。
「支えてくださった方々のおかげで、今日の自分があります。
これからも、誠実に書き続けていきたいと思います」
言葉を終えると、再び拍手が起こった。
その音は先ほどよりも少しだけ大きかった。
壇上を降りると、担当編集者が小さく頷いた。
その表情には、安堵と誇らしさが混ざっているのが分かった。
贈呈式が終わると、会場はそのまま祝賀会の雰囲気へと変わった。
照明が少し落とされ、テーブルには白いクロスと花が飾られ、
シャンパンのグラスが静かに並べられている。
「水原さん、おめでとうございます」
「作品、拝読しました。素晴らしかったです」
次々と声がかかる。
出版社の重役、選考委員、作家仲間、編集者たち。
その一人ひとりと握手を交わしていく。
シャンパンのグラスを受け取り、軽く口をつける。
だが、飲みなれないせいなのか、緊張のせいなのか、味が全くしない。
ほんの数年前まで、地方の工場勤務だったはずだ。
変わり映えのしない毎日をただ家族のためだけに過ごしていた。
なんだ、これは。
伊織は、ここにいる自分が別人のように思えた。
ふと、スマホが鳴る。
絵里奈だ。
ラインを開く。
スピーチ、すごく良かったよ。終わったら電話してね。
早く声を聞きたい。
そう思いながらも、祝賀会はまだ続いていく。
「水原さん、こちらへどうぞ。写真を撮らせてください」
カメラマンが呼び、伊織は笑顔を作る。
フラッシュが何度も光り、その白さの中で、今日という日の現実がようやく形を持ち始めた。
また、ここから人生が変わるのかもしれない。
伊織は、スマホを手に取り、通話ボタンを押した。




