35.癒しの月光
専用ルームで、担当者からマイバッハのキーを受け取る。
伊織はいつものように絵里奈を後部座席にエスコートする。
絵里奈がゆっくりと後部座席に乗り込む。
「すごい…」
後部座席は別世界と言われていた。
言葉は無くとも、絵里奈を見ていればその圧倒的な座りごこちは分かる。
「伊織、スイートルームよ、ここ」
運転席に座った伊織に、後ろから声をかけてくる。
「運転席も申し分ない」
今までのよりもさらに柔らかく、かつ沈み込みすぎない。
絵里奈が今度は一度外に出て、助手席に乗り込んできた。
「うわ…なんだか、守られている感じ」
伊織がスタートボタンに指を触れた瞬間、車内の照明がふっと淡く揺れる。
エンジンがかかる。 しかし音はほとんどしない。
ただ、空気がわずかに震え、その震えが足元から背骨へと伝わってくる。
絵里奈は助手席で、その静かな震えに身を委ねるように目を閉じた。
「こんなに静かなんだ」
伊織がシフトをDに入れると、マイバッハは音もなく前へ滑り出す。
まるで、ディーラーの床が車のために静かに道を開けていくようだった。
ガラス越しに、スタッフたちが深く頭を下げているのが見える。
その姿が遠ざかる。
ディーラーの自動ドアが開く。
夕闇の中、マイバッハは月光のように淡く輝く。
道路に出ると、車はまるで夜の気配を纏ったまま街の中へ溶け込んでいく。
マイバッハは、二人を包み込むような静寂を保ちながら、ゆっくりと街へと溶け込んでいる。
月の化身が、二人の新しい時間を静かに運び始めた。
----
翌朝。
早速、絵里奈は伊織にドライブに行きたいとせがんだ。
二人は駐車場のマイバッハに向かう。
マセラッティと並んだ姿は、もはやその区画だけ別次元だった。
伊織がいつものように後部座席にエスコートしてくれるはずだった。
「…少しだけ、座ってみない?」
伊織はそう言って、運転席のドアを開けた。
「…え」
「王様が、美しい女性を所望している、そんな気がする」
伊織が笑いながら言った。
絵里奈は迷ったが、小さく頷いた。
ゆっくりとシートに腰を下ろす。
ハンドルに手を伸ばす。
けれど、指先が触れた途端、
足がすくむような感覚が襲ってくる。
怖い。
伊織は何も言わず、ただ助手席に座っていた。
そのときだった。
マイバッハの室内照明が、ふっと柔らかく灯った。
その光に包まれた瞬間、胸の奥の緊張が少しだけほどけていくのを感じた。
「あれ…大丈夫かもしれない…」
自分でも驚いたように呟く。
ハンドルを握り直す。
マイバッハの革の感触は、マセラッティのそれとは違っていた。
硬さも、重さも、運転しなければ、という圧力もない。
絵里奈は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。
「……怖くない。なんでだろう」
伊織は微笑んだ。
「月の王は絵里奈を気に入ったようだね」
冗談めかした言葉に絵里奈は微笑む。
絵里奈はもう一度ハンドルを握り、今度はしっかりと指を絡めた。
バックミラーに映っていたはずのトラックの影が、まるで霧が晴れるように消えていった。
事故以来ずっと絵里奈の耳の奥にこびりついていたアナウンスの声。
スピーカーからのノイズ。
ひとつ、ひとつ、と剥がれ落ちていく。
月の王、マイバッハの静寂が、それらをすべて吸い込んでいく。
絵里奈はハンドルを握ったまま、ふと指先の震えが止まっていることに気づいた。
「伊織…」
「絵里奈、そのまま行こう」
絵里奈はアクセルにそっと足を乗せる。
今までなら、その動作だけで足が竦んでいた。
胸が締めつけられ、呼吸が浅くなり、視界が揺れていた。
だが、今日は違った。足は動く。震えない。
車が音も無く、前へ滑り出す。
「うん。もう大丈夫だよ」
そのまま、静かに駐車場を出て、走り出した。
「すごい…」
「どう、王様に抱かれている感じは?」
伊織が若干、嫉妬めいて訊ねてきた。
「そうね…伊織より、気持ちいいかも」
「ちょ、ちょっと、おい…」
絵里奈は笑っていた。
「うふふ…冗談よ」
朝の眩しい光の中で、月の王は輝いていた。




