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薔薇の氷 -Relight-  作者: 水原伊織


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34/41

34.月の化身

あの事故から、半年が過ぎた。

絵里奈は、未だに、ハンドルを握れずにいた。

マセラッティ以外にも、ディーラーの試乗等で運転席に座ってみたものの、足が震える。

運転席に座ると、恐怖が襲ってくるのだ。

伊織は、俺が一生足になる、と言ってくれる。

だが、絵里奈はその優しさに、甘えることはあっても、依存はしたくなかった。

ひとたび依存すれば、今まで伊織を苦しめてきたものと同じ存在になってしまうような気がした。

だから、立ち向かわなければならない。

そんな日々を過ごしていたある日。



----



「明日、ついにメルセデスが納車だって」

伊織は、会社から帰ってきた絵里奈を出迎えながら言ってきた。

明日は土曜日で、絵里奈も休日だ。

「私も行きたい」

「当然だろ」

伊織が購入したのは、現時点での最上級であるメルセデス・マイバッハS680。

大破したSクラスよりさらにグレードアップさせた車両だった。



----



あの日、二人でメルセデスの最後を見届けた後、担当者とすぐに打ち合わせをした。

伊織は、担当者が商談に入る前に言い放った。

「今、現時点が手に入る最上級の車が欲しいです」

担当者が提示したのが、マイバッハだった。



----



二日後。

本契約のため、伊織は絵里奈を連れて、ディーラーに来ていた。

ショールームの奥、ガラス張りの商談室に通される。

担当の営業はいつもよりわずかに背筋を伸ばしていた。

白い手袋を外し、深く一礼してから、静かな声で切り出す。

「本日はマイバッハS680 のご契約ということで、本当にありがとうございます」

その声には、どこか選ばれたことへの誇りのようなものが滲んでいた。


テーブルの上には、厚みのある契約書と専用の黒いレザー調のフォルダがあり、

伊織がページをめくるたび、紙の擦れる音がやけに静かに響く。

担当者が言う。

「こちらが最終のお見積りでございます」

伊織は、フルオプションでの現金一括での購入を決めていた。

約5000千万。

「現金一括で、よろしかったでしょうか?」

「はい」

営業は言葉を選ぶように、慎重に説明を続ける。

その横顔はまるで儀式の進行役のような緊張感を帯びている。

サインを終えると、営業は一瞬だけ息を呑む。

それから深く、深く頭を下げた。

「ありがとうございます。マイバッハをお任せいただけること、心より光栄に存じます」

その瞬間、商談室の空気がわずかに変わる。

店長がノックも控えめに姿を見せる。

「この度は誠にありがとうございます」

普段は姿を見せない工場長まで顔を出し、三人が並んで頭を下げた。

契約書が閉じられる。

「納車は、専用ルームをご用意いたします。当日は少しだけお時間をください」

営業の声は、どこか誇らしげだった。

伊織は、ディーラーにとっては、名誉な事なのだろうと思った。

伊織と絵里奈がショールームを出るとき、スタッフ全員が静かに立ち上がり、深く一礼をした。



----



納車の日。

16時に店に行くことになっていた。

家を出る時には、辺りは薄暗くなり始めた。

伊織は、チャコールグレーのスリーピースのグレーのスーツを身に纏い、

かつての銀狼の名残を静かに滲ませている。

伊織の隣に立つ絵里奈は、淡いグレージュのワンピースに身を包んでいた。

シックで上品な佇まいで、周囲の目を間違いなく惹きつける。

ディーラーまではタクシーを使用して向かう。

すでにタクシーはマンションのエントランス前の道路に停車していた。

「行こうか」

「ええ」

後部座席に乗り込む絵里奈の後に続いて伊織は乗車した。


ディーラーの駐車場に停まったタクシーの後部座席から、伊織は運転手に釣りは結構ですと言って1万円札を渡し、絵里奈をエスコートしながら降りる。

絵里奈の手を引いて、歩く。すでに、スタッフが総出でエントランス付近に直立していた。

「水原様、お待ちしておりました」



担当者から専用ルームへ案内される。

照明は落とされ、室内はほとんど影の世界。

その中心に、まだ姿を隠した一台が静かに佇んでいる。

担当者が小さく息を整え、

「お待たせいたしました」

と言った。


ゆっくりとカバーが外されていく。

布が滑り落ちるたび、銀の光がわずかに漏れる。

最後の一枚が床に落ちた瞬間、

そこに現れた。


「……これが」


伊織の声が響く。

それは、かつて銀狼と呼ばれた車の延長ではなかった。


「まるで…月」

絵里奈がつぶやいた。


そう、月の化身だった。

伊織も絵里奈も息を呑んだまま動けなかった。

伊織が一歩近づく。

マイバッハは音もなく存在感を増した。

まるで、主を認めたかのようだった。

メルセデスと夜を駆け抜けた日々が、遠い記憶のように思えた。

これはもう、狼ではない。


夜を統べる存在。


「…王」

伊織がつぶやく。

神話の扉が今、開いた。


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