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薔薇の氷 -Relight-  作者: 水原伊織


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33/41

33.それぞれの場所

一段落つけてスマホを開く。

絵里奈以外のラインは通知を切っているため、時々こうしてまとめて確認するしかない。


出版社の担当者から、更新の確認とコメントの依頼が来ていた。

すぐにPCを立ち上げ、ブログを開いてコメントを打ち込む。

そのままラインで返信を送る。


他の通知を確認すると、仁からメッセージが入っていた。

前妻との離婚後も、仁とだけは細々と連絡を続けている。


半年に一度ほど、ふらりと顔を出しに来る。

もう二十代後半になっているはずだ。

前に住んでいた家で、一度だけ絵里奈に会わせたことがある。

それ以降は、決まって仕事部屋の方へ仁がやって来る。

相変わらず職を転々としていて、どこも長続きしない。


以前は来るたびに小遣いを渡していたが、ある日三十万を渡したのを最後に、仁は本気で受け取りを拒むようになった。

インターホンが鳴る。

来たようだ。



玄関の鍵を開けると、仁が遠慮がちに姿を見せた。

「お邪魔します」

「おう」


ブーツを脱ぎながら、仁はもう話し始めている。

「この間もらったコーヒー、すげえ美味かったよ」

「ああ、あれね」


仁は昔からコーヒーにうるさい。

来る前に湯だけは沸かしておいた。


ようやくブーツを脱ぎ終えた仁に声をかける。

「リビングのソファで待ってろ」

「了解」


伊織はキッチンに戻り、フィルター越しに湯を落とす。

まず全体をふわりと蒸らし、そこから細く垂らすように。


絵里奈に教わった淹れ方だ。

淹れ終えたコーヒーを持ってリビングへ向かい、ソファ前のテーブルに置く。


仁がカップを見つめながら、ふと尋ねた。

「…今日は、水原さんは?」

「仕事だよ」

平日の午前中。家の中には、二人分の気配だけが静かに漂っていた。



絵里奈はつい先日、職場に復帰した。

不在の間は、なんと片桐が自ら、時々ではあるが北関東エリアの二店舗を巡回していた。

大きな混乱こそなかったものの、GMが不在とはいえ支店長がいて業務は回っているのに、常務がわざわざ実務店舗まで顔を出すのは異例中の異例だった。

別の目的があったのだろう。


片桐が絵里奈のマンションを見舞いに訪れたとき、伊織は仕事部屋にいた。

片桐が絵里奈の部屋に上がることに、まったく危惧がなかったわけではない。

何かあればすぐに行けばいい。

まさか隣に住んでいるとは、誰も思わない。


片桐は絵里奈に見舞いの言葉を述べ、ついでに伊織の新人賞受賞を祝ってくれたらしい。

本も買って読んだという。


水原伊織が絵里奈の夫であることは、本社では周知の事実だ。

かつて囁かれた銀狼の噂も時とともに薄れ、今では水原夫妻は“スーパーセレブカップル”として、社員たちの羨望の的になっている。



「ほんと、綺麗な人だよね、水原さん」

「一応、お前の義理の母になるのか」

「――あ、そうだ。母で思い出した」


仁が言うには、実母の病状が悪化し、また病院に通い始めたらしい。

「一応、日常生活はできてるから、とりあえずは大丈夫そうだけど」

「そうか」


そこから仁は、就職活動の話をぽつぽつと続けた。

このあとハローワークに寄るらしく、帰り支度を始める。


「仁」

「何、小遣いはいらないよ」

「…晴子のこと、何かあれば知らせてくれるか?」

「いいけど…いいの? 水原さんに悪いでしょ?」

「いいんだ。内緒でな」

「うん、わかった」


仁を見送ったあと、伊織は前妻のことを思い返していた。

晴子は三十代後半で甲状腺炎を患い、それ以来、体調の良し悪しを繰り返していた。


夜になると、晴子は決まって、どこか遠くを見つめるような目をした。

焦点が合っているのかどうかも分からない。

痛みを訴える声よりも、その目の奥に沈んだ諦めの色のほうが、伊織には堪えた。


遠出をすることもなく、かといって伊織がどこかへ遊びに行けるわけでもない。

晴子自身も、これといった趣味を持たなかった。


夜になると、どこかが必ず痛むらしく、薄い明かりの中で晴子は眉間に皺を寄せていた。

「頭が…」

そう呟く前に、いつも一度だけ、短く息を吸い込む。

その仕草を見るたび、伊織は胸の奥がひやりと冷えていくのを感じた。


当然、夜の営みも途絶えた。

それでも妻のことは、一生かけて支えるつもりでいた。

だが、向こうにはそうは映らなかったのか、ある日、静かに離婚を切り出された。

それきり、一度も会っていない。




仁が帰ったあとの昼過ぎ、スマホが鳴った。


絵里奈だ。


今、家?

ああ。仁が来てた。

え、仁君が?

ああ。で、どうした?

実は、前川に行く用事が出来て…

ああ、車出すよ。

時間大丈夫?

今から行く。


仕事には復帰したものの、絵里奈はまだハンドルを握れずにいた。

伊織はマセラッティのキーを手に取り、タブレットを片手に玄関を出る。

通話は続けたままだ。

「仁君は、何て?」

「ああ…また仕事辞めたらしい」

「こないだも、そんなこと言ってなかった?」

「あいつも、俺と一緒でサラリーマン向いてない」

「分からないわよ、まだ若いし」

「いつも上司と揉めるらしい」

絵里奈は、苦笑いをしている様子が電話ごしに伝わってきた。



絵里奈を支店まで迎えに行き、そのまま新店舗へ向かう途中の車内だった。

週に一度は必ず発生する移動で、今日はその日だ。


伊織に時間の余裕があるときは、マセラッティを運転して絵里奈の店舗間移動をサポートする。

どうしても時間が取れない日は、絵里奈が公共交通機関とタクシーを乗り継いで移動する。


新店舗に送り届けたあとは、絵里奈の業務が終わるまで待つ。

車内か、近くのファミレスやネットカフェなど、原稿が打てる環境で帰りを待つ。

タブレットさえあれば、どこでも仕事はできる。


車内では、仁の話を続けていた。

「…誰かさんは、どうだったの?」

「…」

「まあ、まだまだこれから、じゃない?」

「そうだな」


信号を曲がり、しばらく走って店舗用の駐車場に入る。

「帰り、連絡するね」

「待ってる」


絵里奈は、伊織の頬に軽くキスをして車を降りていった。

伊織は運転席から、その後ろ姿を静かに見送る。

姿が完全に見えなくなってから、タブレットの電源を入れた。


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