33.それぞれの場所
一段落つけてスマホを開く。
絵里奈以外のラインは通知を切っているため、時々こうしてまとめて確認するしかない。
出版社の担当者から、更新の確認とコメントの依頼が来ていた。
すぐにPCを立ち上げ、ブログを開いてコメントを打ち込む。
そのままラインで返信を送る。
他の通知を確認すると、仁からメッセージが入っていた。
前妻との離婚後も、仁とだけは細々と連絡を続けている。
半年に一度ほど、ふらりと顔を出しに来る。
もう二十代後半になっているはずだ。
前に住んでいた家で、一度だけ絵里奈に会わせたことがある。
それ以降は、決まって仕事部屋の方へ仁がやって来る。
相変わらず職を転々としていて、どこも長続きしない。
以前は来るたびに小遣いを渡していたが、ある日三十万を渡したのを最後に、仁は本気で受け取りを拒むようになった。
インターホンが鳴る。
来たようだ。
玄関の鍵を開けると、仁が遠慮がちに姿を見せた。
「お邪魔します」
「おう」
ブーツを脱ぎながら、仁はもう話し始めている。
「この間もらったコーヒー、すげえ美味かったよ」
「ああ、あれね」
仁は昔からコーヒーにうるさい。
来る前に湯だけは沸かしておいた。
ようやくブーツを脱ぎ終えた仁に声をかける。
「リビングのソファで待ってろ」
「了解」
伊織はキッチンに戻り、フィルター越しに湯を落とす。
まず全体をふわりと蒸らし、そこから細く垂らすように。
絵里奈に教わった淹れ方だ。
淹れ終えたコーヒーを持ってリビングへ向かい、ソファ前のテーブルに置く。
仁がカップを見つめながら、ふと尋ねた。
「…今日は、水原さんは?」
「仕事だよ」
平日の午前中。家の中には、二人分の気配だけが静かに漂っていた。
絵里奈はつい先日、職場に復帰した。
不在の間は、なんと片桐が自ら、時々ではあるが北関東エリアの二店舗を巡回していた。
大きな混乱こそなかったものの、GMが不在とはいえ支店長がいて業務は回っているのに、常務がわざわざ実務店舗まで顔を出すのは異例中の異例だった。
別の目的があったのだろう。
片桐が絵里奈のマンションを見舞いに訪れたとき、伊織は仕事部屋にいた。
片桐が絵里奈の部屋に上がることに、まったく危惧がなかったわけではない。
何かあればすぐに行けばいい。
まさか隣に住んでいるとは、誰も思わない。
片桐は絵里奈に見舞いの言葉を述べ、ついでに伊織の新人賞受賞を祝ってくれたらしい。
本も買って読んだという。
水原伊織が絵里奈の夫であることは、本社では周知の事実だ。
かつて囁かれた銀狼の噂も時とともに薄れ、今では水原夫妻は“スーパーセレブカップル”として、社員たちの羨望の的になっている。
「ほんと、綺麗な人だよね、水原さん」
「一応、お前の義理の母になるのか」
「――あ、そうだ。母で思い出した」
仁が言うには、実母の病状が悪化し、また病院に通い始めたらしい。
「一応、日常生活はできてるから、とりあえずは大丈夫そうだけど」
「そうか」
そこから仁は、就職活動の話をぽつぽつと続けた。
このあとハローワークに寄るらしく、帰り支度を始める。
「仁」
「何、小遣いはいらないよ」
「…晴子のこと、何かあれば知らせてくれるか?」
「いいけど…いいの? 水原さんに悪いでしょ?」
「いいんだ。内緒でな」
「うん、わかった」
仁を見送ったあと、伊織は前妻のことを思い返していた。
晴子は三十代後半で甲状腺炎を患い、それ以来、体調の良し悪しを繰り返していた。
夜になると、晴子は決まって、どこか遠くを見つめるような目をした。
焦点が合っているのかどうかも分からない。
痛みを訴える声よりも、その目の奥に沈んだ諦めの色のほうが、伊織には堪えた。
遠出をすることもなく、かといって伊織がどこかへ遊びに行けるわけでもない。
晴子自身も、これといった趣味を持たなかった。
夜になると、どこかが必ず痛むらしく、薄い明かりの中で晴子は眉間に皺を寄せていた。
「頭が…」
そう呟く前に、いつも一度だけ、短く息を吸い込む。
その仕草を見るたび、伊織は胸の奥がひやりと冷えていくのを感じた。
当然、夜の営みも途絶えた。
それでも妻のことは、一生かけて支えるつもりでいた。
だが、向こうにはそうは映らなかったのか、ある日、静かに離婚を切り出された。
それきり、一度も会っていない。
仁が帰ったあとの昼過ぎ、スマホが鳴った。
絵里奈だ。
今、家?
ああ。仁が来てた。
え、仁君が?
ああ。で、どうした?
実は、前川に行く用事が出来て…
ああ、車出すよ。
時間大丈夫?
今から行く。
仕事には復帰したものの、絵里奈はまだハンドルを握れずにいた。
伊織はマセラッティのキーを手に取り、タブレットを片手に玄関を出る。
通話は続けたままだ。
「仁君は、何て?」
「ああ…また仕事辞めたらしい」
「こないだも、そんなこと言ってなかった?」
「あいつも、俺と一緒でサラリーマン向いてない」
「分からないわよ、まだ若いし」
「いつも上司と揉めるらしい」
絵里奈は、苦笑いをしている様子が電話ごしに伝わってきた。
絵里奈を支店まで迎えに行き、そのまま新店舗へ向かう途中の車内だった。
週に一度は必ず発生する移動で、今日はその日だ。
伊織に時間の余裕があるときは、マセラッティを運転して絵里奈の店舗間移動をサポートする。
どうしても時間が取れない日は、絵里奈が公共交通機関とタクシーを乗り継いで移動する。
新店舗に送り届けたあとは、絵里奈の業務が終わるまで待つ。
車内か、近くのファミレスやネットカフェなど、原稿が打てる環境で帰りを待つ。
タブレットさえあれば、どこでも仕事はできる。
車内では、仁の話を続けていた。
「…誰かさんは、どうだったの?」
「…」
「まあ、まだまだこれから、じゃない?」
「そうだな」
信号を曲がり、しばらく走って店舗用の駐車場に入る。
「帰り、連絡するね」
「待ってる」
絵里奈は、伊織の頬に軽くキスをして車を降りていった。
伊織は運転席から、その後ろ姿を静かに見送る。
姿が完全に見えなくなってから、タブレットの電源を入れた。




