31.真の銀狼
新店舗を出たのは、16時30分。
市道を抜けた先の国道に出る。
左側車線に入り、流れに合わせた速度で車を走らせている。
今日は、伊織のメルセデスを借りていた。
マセラッティとも違い、より重厚感が伝わってくる。
BGMは、車に合うように、ジャズ系を流している。
絵里奈が選んだものだ。
伊織は、昔バンドをやっていただけあって、ロック系には詳しいが、メルセデスの中で聴くには、少し無粋な気がした。
17時少し前。
国道は片側2車線で、この時間はさほど道路は混んではいないが、
これから夕方の帰宅ラッシュを迎えるため、支店に近づくにつれて混んでくるだろう。
絵里奈は、後方確認のため、バックミラーを覗く。
後方の大型トラックの車間距離が近づいてくるのがわかる。
右側車線は空いているため、追い越ししていくだろう。
そう思い、再び前を向いた瞬間だった。
スピーカーから、小さなノイズが流れる。
何か、妙な違和感がした。
背中がシートにグッと押し付けられる。
身体が一瞬、前に浮くような感覚と共に、後ろから強く押された感覚がした。
音が遠くで鳴っているように感じる。
バックミラーを見ると、ミラーいっぱいにトラックが迫っていた。
衝突された、と絵里奈は思った。
ブレーキを踏むが、メルセデスはトラックに押されて続けている。
何故、止まらないの?
後ろから押される感覚は続いていた。
「自動通報が開始されました」
アナウンスが遠くで流れているように聞こえた。
恐怖のせいか、身体がなぜか動かない。
伊織…
ふっと、絵里奈は運転席で座ったまま意識を失った。
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次の瞬間。
メルセデスはまるで、自ら意思があるかのように車体の向きを変えた。
追突したまま止まらないトラックを躱すようにして歩道に乗り上げた。
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伊織は、死に物狂いだった。
片側2車線の国道をマセラッティで駆けていく。
19時少し前で、帰宅ラッシュの時間は少し過ぎていたおかげで、国道も渋滞はしていない。
通常では考えられない速度で、追い越し車線を駆け抜ける。
信号は、反対側から車が来ない限り、すべて無視した。
警察に捕まれば、元も子もない。
そんなことは分かっていた。
だが、それでも、伊織は止まらなかった。
一秒でも早く、絵里奈のもとへ。
「頼む、マセラッティ」
制限速度を遥かにオーバーした速度で走る。
心臓の鼓動が高鳴る。
マセラッティも、主の元へ一刻も早く駆けつけたいかのように軽快だった。
それから間もなくして反対側の車線に交通規制が敷かれているのが見えた。
多分、ここが交通事故現場だろう。
一瞥しただけで、一直線に病院を目指した。
病院ナビで病院の位置は検索してあるのだ。
「頼むぞ、マセラッティ」
伊織は、絵里奈の愛馬に鞭を入れるようにして加速した。
次の信号を右折して、しばらく走ると、ナビで示された病院が見えた。
伊織は駐車場に入る。
マセラッティを飛び降り、救急入口にひた走る。
受付けで手早く状況を説明し、ロビーに入る。
胸が痛いほど脈が速い。
ソファはあちこちに整然と並べられている。
伊織は、あたりを見渡すと、廊下の奥のソファに、絵里奈が座っているのが見えた。
絵里奈。
早足で歩み寄る。
伊織に気づいた絵里奈は、ソファから立ち上がる。
「絵里奈!」
「伊織…!」
絵里奈を正面から抱きしめて、すぐ離す。
「ケガは?」
「今、見てもらって、大したことは無かったの」
「ああ…良かった」
落ち着いたら、むち打ちの症状が出るかもしれないので、2、3日後に再び病院の診断を受ける必要があるとのことだったが、今のところ、無傷だった。
気持ちが落ち着いたのか、絵里奈は泣きはじめる。
その絵里奈を伊織は抱きしめる。
「無事でよかった…」
「でも…でも…、伊織の…メルセデスが…」
絵里奈をソファに座らせて、抱きしめながら泣き止むのを待っていた。
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「……ですか」
「大丈夫ですか?」
声が聞こえる。
「大丈夫ですか?聞こえますか?」
…ここは?
気を失っていたようだ。
担架に乗せられているようだった。
「聞こえますか?」
「…はい」
「ああ、良かった。もう大丈夫ですよ、救急車で病院に行きますからね」
救急隊員らしき人が声をかけてくる。
絵里奈は上半身を起こす。
「…起きれますか?」
「…大丈夫、みたいです」
絵里奈がそう答えると、担架が一度、下ろされる。
絵里奈は担架から自分の足で降りた。
身体はだるいが、どこもケガしてはいなさそうだった。
首も痛みは感じない。
「念のため、病院へ行きますので、救急車へ乗ってください」
「あの…車は、どこ?」
「車…どれですか?」
改めて見ると、壮絶な事故現場だった。
少し遠くで大型トラックが横転し、炎上している。消防車も出動して、消火活動の真っ最中だ。
国道には、乗用車が数台、破損していたり、国道に乗り上げたりしていた。
その中の軽自動車は、原形をとどめていなかった。
絵里奈は、その様子に恐怖で足が震えてきた。
そのまま周りを見渡していると、少し離れたところで、レッカー車に運ばれていく銀色の車が見えた。
メルセデスだった。
後部座席が、真上からプレスされたように潰れていた。
息が、胸の奥でひっかかった。
「あああ…」
思わず、絵里奈は膝をついた。
伊織との思い出の、メルセデス。
何度も乗った、まるでラウンジのような後部座席。
心地よいBGM。
運転席の部分だけが何事もなかったかのように、いつもの姿だった。
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次の日。
その日は平日だったが、絵里奈の事故は労災扱いであり、通院が終わるまでは休業となった。
伊織は、絵里奈を病院に連れていき、診断の後、ディーラーに事故現場からレッカーで運ばれていたメルセデスを見に行った。
修理スペースに運ばれていたメルセデスは確かに原形を留めていなかった。
ディーラーの担当者も、さすがに修理は不可能ですね、と言っていた。
助手席側も削り取られたかのようになっていた。
居眠り運転のトラックは、メルセデスに追突したあとも勢いを失わず、次々と車を跳ね飛ばしていた。
最後は横転して炎上し、運転手はそのまま死亡したという。
伊織は、絵里奈が咄嗟にハンドルを切り、歩道へ乗り上げたのだと思っていた。
「よくハンドルを左に切れたね」
「それが……」
追突の直後、意識を失ってしまったらしく、何も覚えていないという。
ハンドルを切った記憶がないにもかかわらず、メルセデスは歩道へ乗り上げていた。
メルセデスの中でもSクラスは最も高度な受動・能動安全が集中している。
ハンドルを切らなければ、後ろから押し続けるトラックと、止まろうとするメルセデスとの安全機能の我慢比べになっただろう。
中にいた人間が、無事で済むはずがなかった。
まるで意思を持つかのように、車は歩道へと進路を変えた。
運転席にいた絵里奈を守るために。
運転席だけが、いつもと変わらないフォルムのまま、伊織を迎えていた。
メルセデス。
俺が、今の俺に成ってから、初めて乗った。
最後は、俺の一番大切な人を守ってくれたんだな。
お前が、銀の狼だった。
俺たちを守る銀の狼だった。
「ありがとう」
伊織がつぶやく。
隣にいる絵里奈は、泣いていた。




