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薔薇の氷 -Relight-  作者: 水原伊織


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30.焦燥

マセラッティをマンションの駐車場に停める。

隣に並ぶ伊織のメルセデスにぶつけないよう、慎重にハンドルを切りながら車庫入れを進めた。

もっとも、バックモニターのおかげで、駐車は昔に比べればずいぶんと楽になっている。


時計を見ると、十九時を少し回ったところだった。

帰り道、支店には直帰すると連絡を入れてある。


荷物を手に取り、運転席を降りて部屋へ向かう。

エレベーターを出て右へ。

奥が絵里奈の部屋で、手前が伊織の仕事部屋だ。


その前を通り過ぎる。

室内に明かりはなく、静まり返っていた。



絵里奈は自分の部屋の玄関の鍵を開けた。

ドアを押し開けて中に入ると、リビングから伊織が姿を見せる。


「おかえり」

「ただいま」


伊織は自然な仕草で絵里奈の荷物を受け取り、そのままリビングへ向かった。

その間に、絵里奈は靴を脱ぐ。


「今日は、早い方だね」

「向こうを十七時に出てきたし」


コートを、玄関を上がってすぐのハンガーに掛ける。


「お風呂、沸かしておいた」

「ありがとう」


そう言って、絵里奈は背伸びをして、伊織の頬に軽くキスをした。

リビングへ戻っていく伊織の背中が、廊下の奥へと小さくなっていくのを、絵里奈はしばらく見送っていた。




絵里奈は脱衣所の明かりをつけた。

ふわりと柔らかい香りが立ちのぼる。

タオルは端がきちんと揃えられ、部屋着は袖が自然に広がるように置かれている。


伊織の手の癖が、そこにそのまま残っていた。

指先でタオルの端をそっとなぞる。

その瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられるような、けれど温かい感覚が広がった。


(……また、用意してくれてる)


申し訳なさと、甘えたい気持ち。

どちらも嘘ではなく、どちらも消えない。

その二つが静かに重なり合って、絵里奈の呼吸を少しだけ深くした。


バスルームの扉に手をかける前、ふと振り返る。

伊織の肩の動きはいつも通りで、特別なことをしたという素振りはない。


ただ、自然に、当たり前のように、絵里奈のために動いている背中だった。

その何気なさが、心に沁みた。



その夜。


伊織の指先が、絵里奈の肌をそっとなぞる。

そのわずかな触れ合いだけで、ふたりの間に静かな温度が満ちていく。


絵里奈のわずかな息づかいが胸元で揺れ、それに触れるたび、伊織は抗えないほど惹き込まれる。

ようやく触れ合える夜が訪れた。伊織は静かに息を吸い込んだ。


「絵里奈…」

「…伊織…」


深く息を吸い込み、伊織はそっと絵里奈の温もりへ身を寄せた。

重なった呼吸が、少しずつ同じリズムを刻み始める。


ふたりの温度がひとつに溶け合い、その瞬間、伊織は深い安堵に包まれた。

明日は休みだというだけで、ふたりの夜はゆっくりとほどけていく。

寄り添ったまま、言葉もいらない温度だけが、長い時間を満たしていった。



翌週。

昨日の夕方、マセラッティを点検のためディーラーに預けた。

戻ってくるのは翌日の午後だというので、伊織は絵里奈に確認し、代車は受け取らなかった。

用事があれば、メルセデスに乗ればいい。

絵里奈はいつも通りに出勤したが、小一時間ほどで家に戻ってきた。

「伊織、新しいほうの支店に行く用事ができたのよ」

仕事部屋に入ってきた絵里奈に、スクエア型で薄いデザインのメルセデスのキーを渡す。

「運転手、やろうか?」

「ううん、仕事あるでしょ? この間も運転したから大丈夫よ」

そう言って、絵里奈は仕事部屋を出ていく。

その後ろ姿に向けて、伊織は小さく「気を付けて」と声をかけた。





もう夕方になっていた。

伊織は、執筆の合間で、なんとなくだったが、普段は見ないテレビの電源をリモコンでONにした。

この時間は、大抵どのテレビ局も夕方のニュースだ。

画面が切り替わる。

どうやら速報が入ったらしい。


…速報です。本日、片側2車線の国道でトラックによる追突事故が発生しました。警察の調べによりますと、午後5時ごろ、走行中の乗用車に後方からトラックが追突したもので、現場周辺では一時的に交通規制が行われています。

けが人の有無や事故の詳しい状況については、現在確認が進められています。警察は事故の原因を調べるとともに、周辺ドライバーに注意を呼びかけています…


少し前の事故らしい。

伊織はチャンネルを切り替えていくが、どこも似たような番組だった。

18時30分。

そろそろ、絵里奈の部屋のバスルームを清掃しにいこうかと、立ち上がった。

その時、スマホが鳴った。

画面には見慣れない市外局番が表示されている。


まさか。


胸の奥がざわつきながら通話ボタンを押すと、落ち着いた男性の声が聞こえた。

「前川警察署・交通課の木村と申します。水原、絵里奈さんのご家族の方でいらっしゃいますか」


一瞬、時が止まった。


「はい、そうです」

「本日、国道で発生した追突事故についてご連絡しております。絵里奈さんは救急車で桐川病院に搬送され、現在、医師の診察を受けておられます。意識はあり、命に別状はないとの報告を受けています」

命に別状はない。

その言葉が胸の奥に落ちていく。安堵と同時に、力が抜けそうになる。

だが、説明のつかない不安が広がる。

無事だと言われても、実際に顔を見るまでは信じ切れない。

ケガの程度もわからない。

手が焦りで、震え始める。

「事故の状況について、後ほどお話を伺う必要がございます。ご都合のよろしい時間を…」

通話を終えると、伊織は素早く着替え始める。

マセラッティのキーを弾くように拾い上げた。


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