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薔薇の氷 -Relight-  作者: 水原伊織


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3.同影

絵里奈から連絡が来るのは、決まって金曜の夜だった。

その日もいつものように家に帰り、連絡があるかどうかに関わらず外出の支度を整える。


こちらから連絡することはない。

以前、平日にLINEを送ったら既読スルーされた。

勘違いするな、ということかもしれなかった。

それでも構わなかった。

今はただ、週末に絵里奈の愚痴を聞くために生きている。


二度目に会った夜、彼女の壮絶な過去を聞いた。

さらりと聞き流したふりをしたが、後で思い返すたび胸が締め付けられる。

自分も借金を背負わせた過去がある。

人のことは言えない。


通知音が鳴る。

絵里奈以外はすべてオフにしているから、この音は彼女からだとすぐに分かる。


**今どこ?**


短い文字。絵里奈らしい。


**今、家にいる。**

**今から駅前に来て。**

**了解。**


やり取りはそれだけだった。


十分後、駅前ロータリー。

人々の待ち合わせに紛れて、絵里奈が立っていた。キャリーケースを引いている。


「ごめんね、待った?」

「遅い。…なんてね、冗談。本社から帰ってきたところ」


伊織は迷わずキャリーケースを持ち上げる。


「下僕だから、このくらい」

「いいわね〜」


冗談を交わしながら歩く。

だが、つい敬語が漏れた。


「どこまで運ぶんですか?」


絵里奈は眉を寄せる。


「ねえ、敬語はやめて」

「あ、ごめん」

「そうそう、その感じ」


笑顔にまた心を奪われる。


「今日は、うちに来て」


初めての誘いだった。


---


マンションは駅から徒歩五分。

途中で夕食を買い出し、並んで歩く。


絵里奈の話を聞きながら、伊織は、ぼんやりと考え事をしていた。

再会してから3ヶ月くらいは過ぎたのだろうか。いずれも金曜日の夜に会って話をするだけだった。

伊織が下僕と自称するようになってからも、それは変わらなかった。

いつも、外の店で話をして解散だった。

家を知られたくないのだろう、と伊織は思っていたのだ。

それが、今日は家で話をするという。本来なら、何かを期待するのかもしれないが、伊織と絵里奈は、ここ3ヶ月で、一切そういう雰囲気にならない。

久しぶりに会った友達、という感情に近いのかもしれない。

だが伊織は、長年忘れていた、ときめきを感じているのは間違いない。

そのときめきが、恋なのか、切なさなのか。

いずれにせよ、伊織にはまだ罪の意識が強く、絵里奈に対して、そういう感情を持ってはいけないと勝手に決めていた。

そういうと格好がつくが、本当はどうでもよかった。最後は、また同じように醒めてしまうのだ。

伊織は、そんな遁世感を未だ拭えずにいた。絵里奈と再会していなければ、本当に死んでいたかもしれない。

色々な感情が渦巻いて、伊織は、絵里奈の話を殆ど聞いていなかった。


「ちょっと、聞いてる?」


覗き込む細い目に、伊織はドキリとする。


「ごめん、考え事をしていて」

「ふ〜ん、まあいいや」


マンションに着き、玄関を開ける。


「どうぞ」

「お邪魔します」


1LDKの部屋。

リビングは広く、整った空間だった。


「荷物は適当に置いて。部屋のドアは開けないでね」


そう言ってシャワーへ消える。


待つ間、伊織はソファに座り、心臓の鼓動を数えていた。


「お待たせ」


現れた絵里奈はキャミソールにハーフパンツ。

寝間着姿。


「…どこ見てるの?」

「ご、ごめん」

「まだ女の身体に興味あるのね」

「いや、その…」


翻弄される自分に戸惑う。


乾杯の後、絵里奈が言う。


「いつも私の話ばかり。伊織くんのこと、あまり聞いてない」


伊織は会社のこと、これまでのことを語り始める。

酒が進み、口数が増える。


「結局は年功序列。問題を起こさない奴から昇進する会社だよ」

「へえ、真面目に働いてたんだね」

典型的な会社で昇進できない男の愚痴だ。

喋りながら、伊織はそう思った。

「いや、止めよう。下僕ごときが、主人に聞かせる話じゃない」

絵里奈に注がれた酒を一気に呑み干す。

喉が一瞬で熱くなり、身体も燃えるように感じている。

「お、いーねー、伊織くん」

「…これ、酒が強くない?」

伊織が見ると、ウォッカだった。

「すごいね、一気にいくなんて」

「ご、ごめん」

「なんで、謝るの〜?」

小悪魔にしか見えない姿で、伊織は見つめられて、またドキッとした。

しかし、いつものもう一人の自分の声がした。


――罪を償え。


酔いが急に冷める。

伊織は途端に酔いが冷めたような気がしてきた。

「伊織くん、どうしたの?」

「…いや、なんでもない」

「…せっかく、のってきたのに…」

「え?」

絵里奈が、見つめてきた。

「伊織くん、あのさ…」

「…うん」

「伊織くん、ずっと、もうどうでもいいって、目をしていて」

「…」

「あの再会した日なんだけど、本当にたまたま偶然出会って」

「…うん」

「で、私はすぐ気づいたの、伊織くんだってね」

絵里奈は、自分のグラスの酒を飲んだ。伊織は、グラスに水を入れた。

「でも、あなたは気が付かなかった」

「そう…だね」

「私も、伊織くんの事、忘れてた。前の旦那が、浮気するまでは」

「そうなんだ」

「私は、旦那が浮気した時、なんて酷すぎるって思った。けれど、その時、ふと思い出したの。私も、伊織くんに同じことをしてたって事を…」

あの電話のことか、と伊織は思った。

「伊織くんは、ずっと私の事待っているって言ってた。けど、私は」

伊織は水を飲んでいた。

「私は、あなたを信じられなかった」

「…それが、俺をフッた理由?」

伊織は確か、国際電話で新しく好きな人ができたので別れて欲しいと言ってきたのだ。

伊織が絵里奈を見ると、絵里奈は、目に涙を溜めていた。

「だから、私は、あなたを裏切り、寂しさを、埋めたの」

「それは…」

絵里奈は、泣きながら続けた。

「私は、借金をあなたに返済させようとして、色々言ったよね」

「…当然だと思う」

「色々あったけど、あなたは、借金は返済してくれた」

「減額までさせた上でな。惨めだ」

絵里奈は、泣きながら首を振る。

「そんな事ない…」

絵里奈は、少し落ち着こうとしたのか、言葉を繋ぐのを止めた。

伊織は、酔いが少し醒めていた。

しばらくの沈黙。

だが、伊織は、絵里奈が喋るのを待っていた。

「私は、前の旦那に浮気された後、ずっと前に伊織くんにも同じ事をしてたのを思い出したの…だから、伊織くんが、罪を感じる事なんて無いの。伊織くんを今更責める気なんて無い…」

「絵里奈さん…」

絵里奈は、泣きやんだようだ。

「だから、あなたが、借金の事を気にしてる以上に、私は、あなたを傷つけた事を気にしてるの」

伊織は、今まで絵里奈が自分の事を気にしてるとは思っていなかった。

今日、初めて聞いたのだ。

「絵里奈さん」

「何?」

「例え、嘘だとしても、今の俺にそう言ってくれて、ありがとう」

「え?…嘘じゃないよ、私は本当に」

「今の俺に憐れをくれて、ありがとう」

「違う!私は、私は、本当にそんなつもりで言ったんじゃない」

「もう、いいんだ」

伊織は、いつもの口癖をつぶやく。

毎日、何かがあれば、いつも呟いているのだ。

沈黙が時を刻む。また絵里奈は、泣いているようだ。

伊織は、絵里奈と眼が合う。

「その眼…」

絵里奈が言う。

「その眼が、私と同じだったから」

「…そうか」

伊織は、理解した。

彼女も、俺がそうしているように、どうでもいいと思う時期があったのだろう。

俺が死ぬのを、本気で止めようとしているのだ。

うつむいて、目に涙をためたままの絵里奈を見て、伊織は決意した。


どうせ、この程度の命。

俺のために泣いてくれるこの人のために生きよう。


「分かりました。俺はもう死ぬなんて思いません」

「伊織くん…」

絵里奈が顔をあげた。

「もう俺、今までの事、気にしませんから、絵里奈さんも、気にしないで」

「伊織くん」

「そのうえで、俺、改めて絵里奈さんの下僕からスタートさせて下さい」

「え、そ、それは」

「よろしくお願いします」

深々と頭を下げる伊織。

その姿に、絵里奈はただ涙を浮かべていた。


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