29.無明
動画に映っていた男、銀狼。
水原伊織。
片桐は、常務室で物思いに耽っていた。
あれほど噂ばかりが先行していた人物が、あんな調子で自己紹介をしているとは思わなかった。
拍子抜けした。
だが同時に、胸の奥がざわついた。
あれが、絵里奈の選んだ男か。
軽薄にも見える。
ふざけているようにも見える。
だが。
何かが引っかかった。
言葉では説明できない、妙な違和感。
あるいは、直感。
木崎は「ただの成金野郎」と切り捨てた。
だが、片桐にはそうは思えなかった。
むしろ、あの軽さの裏に、何かを隠しているように見えた。
わざと“銀狼”という名を壊しているようにも。
本気を見せる気がないだけのようにも。
あれが本性とは思えん。
そして何より。
絵里奈が、あの男を選んだ理由。
そこに、どうしても辿り着けなかった。
理解できない。
納得できない。
その気持ちを、誰にも悟られたくなかった。特に木崎には。
だから、あの日も、必要以上のことは聞かなかった。
俺は、まだ引きずっているのか。
沙耶のことを思い出すとき、片桐はいつも、胸の奥がひどく静かになる。
痛むのではない。
ただ、深い湖の底に沈んだ石のように、動かない重さがある。
沙耶が亡くなったのは、片桐が大学三年の春だった。
季節の変わり目で、桜が散りきる前の日。
講義の帰り道、携帯が震えた。
知らない番号。
出た瞬間、世界がひっくり返った。
事故だった。
あまりにも突然で、説明の余地がなかった。
片桐は、最後に沙耶と交わした言葉を、今でも覚えている。
「またね」
それだけだった。
それ以上でも、それ以下でもなかった。
沙耶は、片桐の沈黙を理解してくれた唯一の人だった。
言葉にしない感情を、勝手に読み取って、勝手に笑って、勝手に寄り添ってくれた。
だからこそ、彼女がいなくなったあと、片桐は自分の感情を誰にも預けなくなった。
預けたところで、突然奪われるかもしれない。
理由もなく、説明もなく。
あの日から、片桐は“分からない別れ”を恐れるようになった。
絵里奈が選んだ男に対して抱いた、あの説明できないざわつき。
それは、過去の痛みを呼び起こすには十分だった。
理解できない。
納得できない。
理由が分からない。
その三つが揃うと、片桐の心は、あの春の日に戻ってしまう。
だからこそ、誰にも悟られたくなかった。
胸の奥の重さは、今も変わらない。
ただ、静かに沈んでいるだけだ。
絵里奈と初めて会った時の衝撃は今でも忘れない。
沙耶だと思った。
もちろん、顔が似ていたわけではない。
声も違う。仕草も違う。
それでも、最初に視界に入った瞬間、胸の奥がひどくざわついた。
あの頃の記憶が、勝手に呼び起こされた。
理由は分からない。
何かが似ていたのだ。
話をすれば、当然、沙耶ではないことには気づいていた。
それでも、絵里奈は片桐にとって特別だった。
自分でも気づかないほど、ゆっくりと、しかし確実に。
だからこそ、彼女が選んだ男が理解できないことが、片桐の心を乱した。
なぜ、あの男なのか。
その問いに答えが出ない限り、片桐の胸のざわつきは消えない。
そしてそのざわつきは、過去の痛みと現在の不安を、静かに結びつけていく。
絵里奈の笑顔を見るたびに、沙耶の面影が揺れる。
絵里奈の声を聞くたびに、胸の奥の湖がわずかに波立つ。
片桐は気づいていた。
自分はまだ、過去から抜け出せていない。
そして同時に、絵里奈という存在が、その過去を揺らし始めていることにも。
片桐は、絵里奈と一緒に仕事をしていく中で、沙耶とは違う何かも当然持ち合わせている。
当然のように惹かれていった。
何度か交際を申し込んだが、だが、絵里奈はそのたびに、静かに首を振った。
理由は言わなかった。言い訳も、取り繕いもなかった。
ただ、まっすぐな目で、ごめんなさい、とだけ告げた。
その目が、片桐にはいちばん堪えた。
絵里奈は、片桐にとって特別だった。
それを自覚したのは、断られたあとだった。
彼女の笑顔を見るたびに、胸の奥の湖がわずかに揺れる。
彼女の声を聞くたびに、沈んでいた石が、かすかに軋んだ。
そんな彼女が、選んだ、いや、選びなおした男。
銀狼。
片桐はむしろこだわることにした。




