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薔薇の氷 -Relight-  作者: 水原伊織


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29/38

29.無明

動画に映っていた男、銀狼。

水原伊織。


片桐は、常務室で物思いに耽っていた。


あれほど噂ばかりが先行していた人物が、あんな調子で自己紹介をしているとは思わなかった。

拍子抜けした。

だが同時に、胸の奥がざわついた。


あれが、絵里奈の選んだ男か。


軽薄にも見える。

ふざけているようにも見える。

だが。


何かが引っかかった。

言葉では説明できない、妙な違和感。

あるいは、直感。


木崎は「ただの成金野郎」と切り捨てた。

だが、片桐にはそうは思えなかった。


むしろ、あの軽さの裏に、何かを隠しているように見えた。

わざと“銀狼”という名を壊しているようにも。

本気を見せる気がないだけのようにも。


あれが本性とは思えん。


そして何より。


絵里奈が、あの男を選んだ理由。

そこに、どうしても辿り着けなかった。


理解できない。

納得できない。


その気持ちを、誰にも悟られたくなかった。特に木崎には。


だから、あの日も、必要以上のことは聞かなかった。


俺は、まだ引きずっているのか。


沙耶のことを思い出すとき、片桐はいつも、胸の奥がひどく静かになる。

痛むのではない。

ただ、深い湖の底に沈んだ石のように、動かない重さがある。


沙耶が亡くなったのは、片桐が大学三年の春だった。


季節の変わり目で、桜が散りきる前の日。

講義の帰り道、携帯が震えた。

知らない番号。

出た瞬間、世界がひっくり返った。


事故だった。

あまりにも突然で、説明の余地がなかった。


片桐は、最後に沙耶と交わした言葉を、今でも覚えている。

「またね」

それだけだった。

それ以上でも、それ以下でもなかった。


沙耶は、片桐の沈黙を理解してくれた唯一の人だった。

言葉にしない感情を、勝手に読み取って、勝手に笑って、勝手に寄り添ってくれた。


だからこそ、彼女がいなくなったあと、片桐は自分の感情を誰にも預けなくなった。

預けたところで、突然奪われるかもしれない。

理由もなく、説明もなく。


あの日から、片桐は“分からない別れ”を恐れるようになった。


絵里奈が選んだ男に対して抱いた、あの説明できないざわつき。

それは、過去の痛みを呼び起こすには十分だった。


理解できない。

納得できない。

理由が分からない。


その三つが揃うと、片桐の心は、あの春の日に戻ってしまう。


だからこそ、誰にも悟られたくなかった。


胸の奥の重さは、今も変わらない。

ただ、静かに沈んでいるだけだ。



絵里奈と初めて会った時の衝撃は今でも忘れない。

沙耶だと思った。


もちろん、顔が似ていたわけではない。

声も違う。仕草も違う。

それでも、最初に視界に入った瞬間、胸の奥がひどくざわついた。

あの頃の記憶が、勝手に呼び起こされた。


理由は分からない。

何かが似ていたのだ。

話をすれば、当然、沙耶ではないことには気づいていた。

それでも、絵里奈は片桐にとって特別だった。

自分でも気づかないほど、ゆっくりと、しかし確実に。


だからこそ、彼女が選んだ男が理解できないことが、片桐の心を乱した。

なぜ、あの男なのか。


その問いに答えが出ない限り、片桐の胸のざわつきは消えない。

そしてそのざわつきは、過去の痛みと現在の不安を、静かに結びつけていく。


絵里奈の笑顔を見るたびに、沙耶の面影が揺れる。

絵里奈の声を聞くたびに、胸の奥の湖がわずかに波立つ。


片桐は気づいていた。

自分はまだ、過去から抜け出せていない。

そして同時に、絵里奈という存在が、その過去を揺らし始めていることにも。


片桐は、絵里奈と一緒に仕事をしていく中で、沙耶とは違う何かも当然持ち合わせている。

当然のように惹かれていった。

何度か交際を申し込んだが、だが、絵里奈はそのたびに、静かに首を振った。


理由は言わなかった。言い訳も、取り繕いもなかった。

ただ、まっすぐな目で、ごめんなさい、とだけ告げた。

その目が、片桐にはいちばん堪えた。


絵里奈は、片桐にとって特別だった。

それを自覚したのは、断られたあとだった。


彼女の笑顔を見るたびに、胸の奥の湖がわずかに揺れる。

彼女の声を聞くたびに、沈んでいた石が、かすかに軋んだ。


そんな彼女が、選んだ、いや、選びなおした男。

銀狼。


片桐はむしろこだわることにした。


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