27.伝説の狼
買い物へ向かう途中、メルセデスの車内で、伊織がふと口を開いた。
「この間から、ずっと俺たちを尾けてる男がいるの、気づいてた?」
「……え?」
「さっきもさ、駐車場で見かけたんだよ」
「……全然、気がつかなかった」
絵里奈は後部座席で、ゆったりと身を預けていた。
メルセデスの後席は、まるでラウンジのような空間で、彼女のお気に入りだ。
伊織はいつも、当然のように彼女を後部座席へエスコートする。
助手席に座るのも嫌いではないが、運転する伊織の背中を後ろから眺めるこの位置も、絵里奈は好きだった。
「いつから?」
絵里奈が聞き返した。
「正確には覚えてない。でも、間違いなく誰かに尾けられてる」
「……なんでだろう?」
「最初はさ、絵里奈のストーカーかと思った」
「ストーカー?」
「でも、それにしちゃ変なんだ」
「どうして?」
「普段は、まったく気配を感じない。ただ――」
「ただ?」
「金曜日になると、時々、気づくんだ」
「……見られてる、って?」
「気のせいだと思ってた。でも今日、駐車場で姿を見て、確信した」
その言葉に、絵里奈の表情が強張る。
「え……どうしよう。怖い」
「……絵里奈、最近、何か変わったことはない?」
「最近……?」
「仕事でも、それ以外でもいい」
絵里奈は、少し考え込むように視線を落とした。
「あ……そういえば」
彼女は、会社での最近の出来事を語り始めた。
その話を聞きながら、伊織は確信していく。
尾行者の存在。
そして、尾行する理由。
「絵里奈……あくまで想像にすぎないんだけど」
「え? 何?」
伊織は、メルセデスの静かな車内で、自分の考えを絵里奈に伝えた。
スーパーマーケットの一角にある休憩スペースで、
絵里奈は伊織と並び、篠崎と向かい合って座っていた。
篠崎は腰を下ろしてから、ずっと俯いたままだ。
「篠崎さん……どうしてなんですか?」
絵里奈が問い詰める。
しばらく沈黙が続き、やがて篠崎は顔を上げた。
「……興味がありました」
「え?」
「水原GMが、どんな生活をしているのか」
伊織が、ほんのわずかに反応する。
「……それが本当なら、ストーカー行為で訴えるけど?」
絵里奈がそう言うと、篠崎は再び視線を落とした。
「違うわよね?」
答えはない。
絵里奈は考え込んだ。
篠崎は本社から派遣されてきた応援要員だ。
仕事ぶりも、これまでの振る舞いも、軽はずみな行動を取る人物には見えない。
内部監査員まで歴任した男が、リスクを理解していないはずもない。
──となると。
伊織の読みが正しい。
絵里奈は、声のトーンを落として言った。
「……誰に頼まれたの?」
その瞬間、篠崎の身体が、わずかに跳ねた。
ーー
篠崎にとって、今日が支店勤務の最終日だった。
半年という短い期間だったが、
気づけばこの街を、少し好きになりかけていた。
荷物をまとめていると、水原が声をかけてきた。
「篠崎さん。応援、ありがとうございました」
「水原GM……こちらこそ」
篠崎は、深く頭を下げた。
ーー
篠崎は、木崎に頼まれ、銀狼の調査を目的に水原を尾行していた。
万が一発覚した場合は、篠崎が勝手にやったことにしろ。
そう釘を刺されていた。
だから篠崎は、水原に対する個人的なストーカー行為だと言い張った。
だが、銀狼も、水原も、それで納得するはずがなかった。
それが発覚したのは、数か月前のことだ。
捕捉され、水原に詰め寄られた時も、篠崎は黙っていた。
その沈黙を破ったのは、銀の狼だった。
「上の人間だ。それも、かなり上のほうだろ。
俺を調査しろって言われたんじゃないか?」
「…」
「うまくやれば、見返りを用意する。そんな話だったはずだ」
「…」
「サラリーマンだもんな。辛いよな」
すべてを見透かしたような口ぶりだった。
篠崎は、思わず噛みつく。
「あんたに何が分かる?高級車を乗り回して、周りが羨むような生活をしてるあんたに」
「分かるよ」
銀の狼は、鋭く、それでいてどこか優しく言った。
「俺も、少し前までは、あんたみたいなサラリーマンだった」
「何?」
「違うとすれば、上の言うことを一切聞かなかったところくらいだ」
水原が、わずかに苦笑する。
「誰が頼んだかなんて、興味もない。ましてや、絵里奈の会社の人間なら、なおさらだ」
「…俺は、どうすればいい?」
思わず、口をついて出ていた。
「今まで通りでいい。残りの期間、普通に仕事すればいい」
「え?」
「それと、銀の狼のこと、教えてやれよ。そいつに」
一拍置いて、銀の狼は言い直した。
「……いや、そいつ“ら”か」
この男は、どこまで知っているのか。
それとも、何も知らないのか。
「俺は、絵里奈のストーカーかどうかだけを心配してたんだ。まさか、自分のストーカーだったとはな」
銀の狼は、水原に視線を向ける。
「絵里奈の会社で、ちょっと見せつけすぎたかな?」
「……今でも、銀狼の噂は出ます」
「銀狼、ねえ」
「……誰もが羨む、憧れの薔薇。氷の薔薇」
水原が、わずかに反応した。
「銀の狼が、薔薇の氷を溶かして持ち去った。そんな伝説です」
それだけを聞いて、銀の狼は言った。
「なら、その伝説の男が、どんな男か教えてやる」
絵里奈が、少し苦笑いする。
「……伊織、しゃべり下手だけどね」
ーー
あの時の銀狼のことは動画に残してある。
篠崎は、帰りの新幹線を待つ間、見返していた。
俺は、水原伊織。お前らの大好きな、水原絵里奈の夫だ。
俺は、世界で一番絵里奈を愛している。死ぬまで愛し続ける。
お前らの間じゃ、銀の狼って言われているらしいが、光栄だね。
これまでの人生、そんな賞賛一度も言われたことなかったからな。
元々は、俺はサラリーマン。
都内で働くお前らと違って、安月給の地方の工場勤務だった。
俺には、家族がいた。子供は3人いる。
みんな大人になったら、前の妻に、離婚を切り出された。
だせえ男だったって事だ。
俺はそこで死のうと思ってた。
だが、俺は、絵里奈に再会して、絵里奈にふさわしい男になるために、生まれ変わったんだ。
俺は昔、絵里奈を傷つけたことがある。今でも、申し訳なく思ってる。
だけどな・・・
・・・ちょっと、長くない?
ああ、ごめん、ごめん、ともかく、あれだ、その。俺はこういう奴だ。
どこかであったらよろしくな!
・・・やっぱ、伊織はあまり、しゃべらないほうが・・・
い、いや、だって・・・
そこで、動画は終わっていた。
篠崎は、そのまま木崎に転送した。
これで、自分の任務は終わりだ。
少しだけ好きになった街の匂いを胸に、篠崎は新幹線に乗り込んだ。




