21.「来れる?」「行く」――隣同士の部屋で過ごす、100万部作家とGM(彼女)の贅沢な平日。
伊織は、仕事部屋として借りたマンションの一室にいた。
引っ越しからひと月が経つが、執筆やブログの更新に追われ、
合間を縫っての作業では荷物の整理まで手が回らない。
前の家からの引っ越しは驚くほど楽だった。
ほとんどの物を捨ててしまったからだ。
新しい部屋にも生活に必要な物は置いたが、あくまで最低限に留めた。
買い替えたトレーニング機材や、ノートPCの定位置だけはきちんと整えてある。
1LDKのこの部屋では、自然とリビングで過ごす時間が長くなる。
運動不足だけは避けたいと、自己管理には気を配っていた。
寝室には一応ベッドを置いたものの、ほとんど使っていない。
眠るときは、隣の絵里奈の部屋へ行くからだ。
本来なら、広めの部屋を借りて一緒に暮らすのが自然なのかもしれない。
だが平日は絵里奈の帰りが遅く、伊織の存在が負担にならないよう、
あえて別々の部屋を借りた。
とはいえ、部屋は隣同士で、ほとんど同棲と変わらない。
ラインが来れば、すぐに駆けつけられる距離だ。
午後3時。
部屋の整理に一段落つけ、近くのスーパーへ食料品の買い出しに向かった。
歩いて行ける距離なのはありがたい。
マンションに戻ると、今度は絵里奈の部屋に入り、
買ってきた食材を冷蔵庫へ詰め込む。
夕食を作っておこうかとも考えたが、
帰宅時間が読めないうえ、食べる量も日によって違う。
かえって負担になりかねないと思い、今日はやめておいた。
そのままバスルームに入り、掃除を終える頃には17時になっていた。
絵里奈の支店の勤務時間は9時から18時だが、
家に帰ってくるのは早くても19時を過ぎる。
一度自分の仕事部屋に戻り、再び執筆に向かう。
隙間時間でも仕事ができるのが作家という職業だ。
サラリーマンのように時間が決められているわけではない。
逆に言えば、時間の使い方は完全に自由で、
締め切りさえ守ればいい。
だからこそ、生活が不規則になりすぎないよう、
自分なりに気をつけている。
仕事部屋には、キーボードを叩く音が響く。
時間は20時を過ぎていた。
集中する時は、まさしく寝食を忘れる。
金曜日の夜から日曜日の夜までの時間は絵里奈と過ごしたいので、
伊織は平日、絵里奈が仕事中に出来る限り仕事を進める。
隣の部屋から、物音が少しだけ聞こえる。
絵里奈が帰ってきているようだ。
絵里奈の方も伊織に配慮しているようで、
平日は他愛もない事でラインをあまりしてこない。
それに、お互いに1人になって落ち着きたい時もある。
そういう意味では、この仕事部屋を作ったのは正解だ。
そのまま仕事を続けていると、スマホが鳴る。
絵里奈だ。
ご飯食べた?
まだ。
来れる?
行く。
いつも通りの短いラインのやりとりをして、伊織は部屋を出た。
絵里奈の部屋に入ると、ふわりといい匂いがした。
シャワーを済ませたばかりの絵里奈が、夕食を二人分作っていた。
「おかえり」
「ただいま」
メイクを落とし、部屋着に着替えた姿。
この無防備さを知っているのは、伊織だけだ。
以前は専業主婦だったこともあり、絵里奈は料理が得意だ。
平日の忙しい中でも、こうして夕食を作ってくれる日がある。
そんな時、伊織は必ず食べる。
「うまい」
「うふふ」
向かい合って食べる夕食は、特別なことをしなくても満ち足りていた。
片付けを終えると、伊織はソファに座る絵里奈の隣へ腰を下ろす。
本当は、今すぐにでも抱きしめたい。
だが今日はまだ木曜日。
伊織は良くても、絵里奈の仕事に響いてしまう。
もう若くはない――その自覚が、ふたりの距離をそっと保たせていた。
時間は22時を少し過ぎていた。
寝る準備を整え、ふたりで寝室に入る。
「伊織……エッチ、してもいいよ?」
「いや、絵里奈。明日の夜まで我慢する」
「そっか。じゃあ、おやすみ」
絵里奈は布団に入り、伊織もその隣に横になる。
静かな呼吸が重なり、部屋の灯りが落ちていく。
翌朝、伊織はいつものように、絵里奈より少し早く目を覚ました。
カーテン越しの光が、寝室を淡く照らしている。
隣では、絵里奈が規則正しい寝息を立てていた。
起こさないように、そっとベッドを抜ける。
キッチンに立ち、コーヒーの豆を挽く。
豆を挽く音もあまり立てないようにしている。
平日の朝は、こうして絵里奈の生活リズムを邪魔しないようにしていた。
時計を見ると、6時半。
絵里奈が起きるまで、まだ少し時間がある。
7時前、寝室から微かな物音がした。
ドアが開く気配。
「おはよう」
寝起きの、少し掠れた声。
絵里奈は、まだ眠そうな顔で立っていた。
化粧をしないと顔が激変する女性も多いが、絵里奈は違う。
その眠たげな目を見るだけで、胸の奥がゆるむ。
この朝の顔を見られるのは、自分だけだと思うと、不思議な幸福感があった。
「コーヒー、あるよ」
「ありがとう」
二人並んで、キッチンカウンターに立つ。
会話は少ないが、沈黙が気まずいわけではない。
「今日は、少し早く帰れるかも」
「そうなの? でも無理しないでいいよ」
「うん」
微笑んで、絵里奈はカップを両手で包む。
その横顔を見て、伊織は思う。
こうして一週間を乗り切り、週末を迎える。
それだけで、十分だ。
出勤の準備を終えた絵里奈を、玄関まで見送る。
「いってきます」
「いってらっしゃい」
ドアが閉まる音がして、部屋は静かになる。
伊織はそのまま、仕事部屋へ戻っていった。




