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薔薇の氷 -Relight-  作者: 水原伊織


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20.残響

伊織が退職してから、村口はしばらく落ち着かない日々を過ごしていた。

仕事は変わらず忙しい。

だが、ふとした瞬間に、

先輩ならどうするだろう。

と考えてしまう自分がいる。


伊織がいなくなった現場は、思いのほか混乱した。

誰もが、彼がいなくても変わらない存在だと思い込んでいた。

しかし、実際には、誰よりも静かに現場を支えていたのが伊織だった。


その事実に気づいたのは、村口が最初だった。


ある日の残業後、村口は休憩室で一人、書類を整理していた。

ふと、伊織が使っていた机の方に目が向く。

もう誰も座っていないその席は、妙に広く、静かだった。


村口は、そっと椅子を引き、座ってみた。

机の上には何も残っていない。

ただ、長い年月を過ごした人間だけが残す、

わずかな気配のようなものがあった。


「……先輩、俺、どうすればいいんですかね」


誰に聞かせるでもなく、呟いた。


その夜、村口は初めて

自分が伊織の背中に頼りすぎていたことを自覚した。



翌週から、村口は少しだけ働き方を変えた。

誰かが困っていれば、先に声をかける。

面倒な仕事も、黙って引き受ける。

誰かが失敗しても、責めずにフォローする。


それは、かつて伊織がしていたことだった。


周囲は驚いた。

「村口さん、最近変わったね」

そう言われるたびに、村口は照れくさそうに笑った。


だが、心の中では、

「先輩の真似をしているだけです」

と静かに答えていた。


ある日の昼休み。

村口は、スマートフォンでニュースを見ていた。

“謎の新進気鋭作家・山村伊織、100万部突破へ”

そんな見出しが目に入る。


村口は、しばらく画面を見つめたまま動かなかった。


「……先輩、すげぇな」


声に出すと、胸の奥がじんわりと熱くなった。


伊織が会社を辞めた理由。

あの日、泣きながら問いかけた自分に、

「ついてくる相手を間違えた」

と告げた真意。


ようやく、その意味が分かった気がした。


その日の帰り道、村口は昇格試験の申込書を提出した。

以前なら、

「まだ早い」

「自信がない」

と先延ばしにしていたことだ。


だが今は違う。


伊織が残した“空席”を埋めるためではない。

誰かの背中を追うためでもない。


ただ、自分の足で立つために。


村口は、ゆっくりと歩きながら、

冬の空を見上げた。


「先輩。俺、ちゃんとやりますから」


その言葉は、冷たい空気の中に静かに溶けていった。



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