2.始まり
二週間後、昼休みの会社の食堂で、伊織のスマホが震えた。
画面には絵里奈からの短いメッセージ。
**今日の夜、空いてるよね?**
「よね?」という語尾に、伊織は思わず苦笑した。
これも償いの一部なのだ、と自分に言い聞かせる。
金曜の夜に予定などほとんどない。
伊織はすぐに返信した。
**もちろん空いてます**
間を置かず返事が届く。向こうも昼休みなのだろう。
**じゃあ、駅前に集合**
地図が添付されていた。
伊織は「了解しました」とだけ返す。
再会の夜に聞いた話では、絵里奈は大手広告代理店の支店長として、この街に赴任してきたらしい。
都内本社で働いていたが、結婚で一度退職し、離婚を機に復帰したという。
お互いバツイチだね、と自虐気味に笑い合ったことを思い出す。
昼休み終了のチャイムが鳴り、伊織は現場へ戻った。
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その夜、駅前の個室居酒屋。
向かい合った絵里奈は、グラスを片手に元夫の愚痴をこぼし始めた。
「私が帰ったら、別の女と寝てるのよ! 信じられない!」
酒のペースが早く、言葉は止まらない。
伊織は相槌を打ちながら瓶ビールを注ぎ、一口飲んだ。
今日は聞き役に徹する日だ、と心に決める。
やがて話は、絵里奈の過去へと移った。
絵里奈は大手企業に勤めていたが、結婚を機に退職した。
ところが、元夫が多額の借金を抱えてしまい、その返済先は危険な人物だった。
返済のため、絵里奈は自由を奪われるような形で、裏社会の仕事に従事させられることになる。
生活の場も自宅ではなく、管理された施設の一室に移され、日々をそこで過ごした。
心身ともに追い詰められる過酷な日々を耐え抜き、ようやく借金を完済することができたのだった。
耐え忍んで返済を終えたとき、待っていたのは裏切りだった。
自分が身を削っている間に、夫は別の女で欲望を満たしていたのだ。
「死のうと思ったの」
絵里奈は淡々と語る。
「会社の屋上まで登って、靴を脱いで、柵に手を掛けた」
その時、背後から声がした。
振り返ると、かつての上司――片桐だった。
彼は彼女を強く抱きとめ、泣き崩れる絵里奈を事務所へ連れていった。
事情を聞いた片桐は、離婚を勧め、会社への復帰を後押しした。
彼はすでに常務取締役に昇進しており、権限もあった。
「はぁ、全く。私、男運ないみたいね」
「俺にそれ言います?」
伊織は思わず笑った。
「やっと笑った」
絵里奈は真剣な眼差しを向ける。
「伊織くんも辛いよね。ごめんなさい、こんな話ばかりで」
「いや、気にしないで。今日は聞く係だから」
瓶ビールを注ぎ合いながら、二人の距離は少しずつ近づいていく。
「あとさ、いつまで敬語使うの?」
「えっと…その、年上だし、申し訳ない気持ちがまだ強くて」
「そんなに気にしてたの?」
「はい」
絵里奈はグラスを空け、真剣な声で言った。
「償うって言ってたよね?」
「はい」
「なんでも言うこと聞く?」
「出来ることなら、なんでも」
「それじゃ下僕じゃん」
「下僕でいいです」
「本当に? ははは」
笑った後、絵里奈は急に真顔になる。
「じゃあ、まず敬語をやめて。私の呼び出しには出来る限り応じること」
「…うん」
「今思いつくのはそれくらい。後は考えとく」
にっこり笑う彼女に、伊織は心を奪われ始めていた。
その夜はそれで解散となった。
「送ろうか?」と伊織が言うと、「大丈夫」と答え、絵里奈は街へ消えていった。
玄関を開けると、スマホが震えた。
**今日も楽しかった。また連絡するね。**
伊織はすぐに返信する。
**俺もです。いつでも連絡下さい。馳せ参じます。**
鼓動は収まらない。
惹かれているのだと自覚する。
だが同時に、人付き合いに疲れ、もう死ぬのだと諦めている自分もいる。
再び通知音。
敬語はやめて。
あと、死なないで




