18.決意
伊織の書いた小説が、本人の想像を遥かに超えて売れた。
自身の実体験をもとにした、恋愛色の強い物語。
もともと作詞作曲を趣味にしていたこともあり、書くという行為は苦ではなかった。
だが、まさかここまで反響があるとは思っていなかった。
旧姓の「山村伊織」名義で出版したため、会社や知人から問い合わせが殺到したが、
すべて「同姓同名の別人です」と押し通した。
電子書籍も文庫版も次々に増刷され、ついに発行部数は100万部目前となった。
数字で見ても、どこか現実感がなかった。
書店に並ぶ自分の本も、テレビで流れる名前も、まだ他人事のように感じていた。
テレビをつけると、ニュースでも取り上げられていた。
出版社には顔出しもインタビューもすべて断っているため、
“謎の新進気鋭作家”として宣伝されているらしい。
「伊織…すごいね」
「いや、結構恥ずかしいこと書いてるんだよ。あんまり近しい人には知られたくない」
「なんでよ、いいじゃない」
「だってさ、彼女と抱き合うところとか…」
「ふむふむ」
絵里奈はテーブルの上の本――『枯淡』を手に取り、ページをめくり始めた。
「え〜と、なになに“彼は、彼女のキャミソールを捲くりあげ…」
「ちょ、絵里奈っ、読まないで!」
「乳房の柔らかさを…」
「こら〜!」
書いているときは平気だったのに、
こうして目の前で読まれると、どうしようもなく恥ずかしい。
「続編、書いてくれってさ」
実は伊織は、途中で面倒になって物語を中途半端に終わらせていた。
それが、余韻、として読者に刺さり、出版社には続編の要望が殺到しているという。
「どうしよう…忙しいのヤダな」
「なんで?」
「絵里奈に会う時間が減る」
ブログ、執筆、資産運用。
本業の合間にやるなら、休日しかない。
「私も伊織に会いたいけど…でも、すごいことしてるんだよ、あなたは」
「そうなのかな?」
ふと思い立ち、伊織はパソコンを開き、数字を入力し始めた。
迷ったときは数字で比較――絵里奈に教わった方法だ。
答えは一目瞭然だった。
「絵里奈…話がある」
「なに?改まって」
「本業の会社を辞めようと思う」
「いいんじゃない〜?いつ?」
あまりに軽い返事に、伊織は苦笑した。
「だって、言わなかったけど、今だに続けてるの、ずっと謎だったから」
「保険みたいな感じだったんだ」
絵里奈は本を閉じ、真っ直ぐに伊織を見た。
「はっきり言うけど、今のあなたには保険にもなってない」
「そうなのか…」
「だから、こだわりでもあるのかなって思ってた」
言われてみれば、何もない。
「じゃあ決まりね!作家やるの?ブロガーかな?」
絵里奈の方が、伊織より、本当に嬉しそうだった。
「嬉しそうだね」
「だって、伊織が辛いことを辞められるんだよ。嬉しいに決まってる」
伊織は、ようやく気づいた。
自分を抑えつけて生きてきたのは、
上手く生きるためなんかじゃなかった。
「来週、会社に言うよ。その後のことは、それから考える」
絵里奈は、伊織以上に嬉しそうに見えた。




