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薔薇の氷 -Relight-  作者: 水原伊織


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17/38

17.記念日

GMに就任する前からだったが、

絵里奈は、有給休暇を殆ど取得していない。

本社の役員なら話は別だが、部長以下になると、最近では有給休暇をきちんと取っている人も多い。


人事部から、年5日は必ず取得するように、通達が出た。

北関東エリアのスタッフも皆、有給休暇の取得率が悪く、改善命令が出された。


だが、実際の現場では有給を取るにもお互い、気を遣い合い、調整に手間取る。

そこで、絵里奈は、第3金曜日を北関東エリアの2店舗の定休日として、全員の有給休暇5日分をそこに充てた。


賛否両論はあったが、断行した。

どうせ皆が消化しきれない有給休暇だった。

取得率が増えれば、この定休日制度は廃止するつもりだった。





その第3金曜日。

絵里奈は、今までの勤務先の支店に出来たGM室にいた。

皆を休ませておいて、自分は普通に仕事をする。

管理職に、あまり時間は関係無い。

日本の企業がブラック化する要因だろう。

ただ、今日は午前中、早ければ11時には終わる。

伊織も今日、午後休暇を取得している。

この後、二人で午後に市役所に行く予定だった。




仕事が終わり、絵里奈はデスクの引き出しから、婚姻届を取り出した。


折り目のついた用紙を机の上に広げ、記入が必要な箇所をもう一度だけ確認する。


「水原伊織、水原絵里奈」


文字を指でなぞり、誤りがないかを見る。

それだけの作業のはずだったが、絵里奈は一瞬、手を止めた。


----


昨日の夜のことだった。


「俺、水原姓を名乗りたいんだけど…」

「え?そうなの?」

「まあ、名乗りたいというか、絵里奈のほうが手続き大変そうじゃん?」


会社員である上に、役職もついている。

黙っているわけにはいかないだろう。

仕事上だけは、水原を名乗ることもできるが、なにかと手間と言えば手間だった。


「本当に、いいの?」

「俺、本業は暇だから」

「手続き、大変でしょう?」

「有給使えるし」


伊織が、性を変えたいと言った。

伊織の方が、手続きのための時間が取れる。

それだけの合理的な理由だった。

生活が変わるわけでもない。

それでも、この紙切れ一枚が、これからの時間の重さを確かなものにする。


----


絵里奈は婚姻届を静かに畳み、引き出しに戻した。


帰り支度を整えて、支店を出てから、社員カードでセキュリティをかける。

出入り口の扉は全て電子施錠だ。

絵里奈は、自宅マンションへ歩き出した。





市役所の窓口。

番号札の電子音が鳴り、二人の番が来る。

書類を差し出した伊織に、職員が淡々と確認を進める。


「では、新しいご姓は……水原、でよろしいですね?」


その言葉に、絵里奈は横で小さく息を呑んだ。

伊織は一瞬だけ視線を落とし、そして静かに頷いた。


「はい」


その声は、驚くほど落ち着いていた。


職員が書類を処理している間、二人の間に、短い沈黙が落ちる。

絵里奈は、窓口の硬い椅子に座りながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


「伊織」

「何?」

「ありがとう」

「こちらこそ、ありがとう」


職員が書類を返しながら言う。


「はい、これで氏名変更の手続きは完了です。お疲れさまでした」


窓口を離れたあと、伊織は少し照れたように笑った。


「二度目だけど、悪くない」

「そうね」


短いやり取りだけだったが、今日という日が、記念日になった。




その後、絵里奈は、伊織と遅めのランチに来ていた。

今日の伊織は、割とカジュアルな出で立ちだった。

午前中に仕事してきたせいか髪型はわりと自然な感じだ。

勿論、チープさは出ておらず、そこはかとなく品もある。


本社に絵里奈を迎えに来たあの日は、伊織は銀狼と呼ばれていたが、今日の感じは全く違った。

鎧を纏っていない時の伊織の姿で、本来持ってる性質なのかもしれない。


----


絵里奈は、あの借金返済中の日々で、男という生き物を理解した。

どんな男も、本能に従って生きている。

どれほど理性的に振る舞っていても、

その奥には必ず、獲物を求める衝動がある。

それは狩猟本能と呼ぶべきものだった。


だから女は、本能的に、

強そうな男に一瞬は惹かれる。

だが、強さには終わりがない。

強さだけを求めるなら、

より強い男を、際限なく探し続けることになる。


現実がそうならないのは、

女が本当に求めているものが、強さではないからだ。

女が欲しいのは、安定だった。

子を産み、育てるという営みには、

安心できる居場所が必要になる。


優しさは、一時的に取り繕うことはできる。

だが、本能が満たされた後もなお続けられるかどうかで、

本物かどうかが分かる。


伊織は、優しさを持っていた。

それは生まれつきのものではない。

痛みを知っているからこそ、

身についた優しさだった。


ただ、その優しさゆえに、伊織自身は削られてきた。

自分を犠牲にしてまで相手のために生き続けてきたのだ。


若い頃の絵里奈は、そんな伊織の優しさに気づくことが出来なかった。


絵里奈は思った。

その優しさに、女を愛せるだけの強さが加わった時、

伊織はどうなるのだろうかと。

伊織も変わってしまうのかもしれない。


だが、伊織は変わらなかった。

真の優しさを持つ男だった。


絵里奈は、それを僥倖だと思った。

離婚した時、孤独は受け入れる覚悟をしていた。

仮に男と関係を持つことはあったとしても、愛情を求めるつもりはなかった。

片桐の交際の求めにも、応じなかった。


伊織は、いつの間にか、その温かな優しさで絵里奈の心を包み、凍りついていた感情を溶かしていた。

それは、今も変わらなかった。


----


「この後、どうしようかな?」


伊織が絵里奈に聞いてくる。


「帰ろうよ、用事が無ければ」


その日は、他に用事が無かった。


伊織は、一度絵里奈をマンションに降ろして、 車を置きに家に戻った。

その後、絵里奈のマンションに寄ってから、二人でディナーに出かけることにした。


地方のホテルではあるが、最上級のレストランを予約してある。


今日が、結婚記念日になる。


服装はある程度決めていたが、思っていたほど堅苦しい雰囲気ではなさそうだった。

ホテルのレストランに入り、席に案内される。


「乾杯」


ワイングラスが、静かに触れ合った。


「今日の絵里奈も、綺麗だ」

「……ありがとう、伊織」


大切に思っていても。


愛していても。


言葉にしなければ伝わらないことがある。


伊織は、良い言葉を惜しまなかった。


綺麗だ、素敵だ、愛している、ありがとう。


代わりに、悪い言葉が浮かんだ時は、

口を閉ざした。


それは簡単なことではなかったが、

生活に余裕が生まれるにつれ、

自然と減っていった。


世界でたった一人、愛する絵里奈の前で、

自分の価値を貶める真似はしたくなかった。


「最上階のラウンジに行ってみたい」


絵里奈がそう言うと、伊織は黙って立ち上がり、手を差し出した。


その手を取った瞬間、その温度が、今日という日を、確かなものにしていた。


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