17.記念日
GMに就任する前からだったが、
絵里奈は、有給休暇を殆ど取得していない。
本社の役員なら話は別だが、部長以下になると、最近では有給休暇をきちんと取っている人も多い。
人事部から、年5日は必ず取得するように、通達が出た。
北関東エリアのスタッフも皆、有給休暇の取得率が悪く、改善命令が出された。
だが、実際の現場では有給を取るにもお互い、気を遣い合い、調整に手間取る。
そこで、絵里奈は、第3金曜日を北関東エリアの2店舗の定休日として、全員の有給休暇5日分をそこに充てた。
賛否両論はあったが、断行した。
どうせ皆が消化しきれない有給休暇だった。
取得率が増えれば、この定休日制度は廃止するつもりだった。
その第3金曜日。
絵里奈は、今までの勤務先の支店に出来たGM室にいた。
皆を休ませておいて、自分は普通に仕事をする。
管理職に、あまり時間は関係無い。
日本の企業がブラック化する要因だろう。
ただ、今日は午前中、早ければ11時には終わる。
伊織も今日、午後休暇を取得している。
この後、二人で午後に市役所に行く予定だった。
仕事が終わり、絵里奈はデスクの引き出しから、婚姻届を取り出した。
折り目のついた用紙を机の上に広げ、記入が必要な箇所をもう一度だけ確認する。
「水原伊織、水原絵里奈」
文字を指でなぞり、誤りがないかを見る。
それだけの作業のはずだったが、絵里奈は一瞬、手を止めた。
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昨日の夜のことだった。
「俺、水原姓を名乗りたいんだけど…」
「え?そうなの?」
「まあ、名乗りたいというか、絵里奈のほうが手続き大変そうじゃん?」
会社員である上に、役職もついている。
黙っているわけにはいかないだろう。
仕事上だけは、水原を名乗ることもできるが、なにかと手間と言えば手間だった。
「本当に、いいの?」
「俺、本業は暇だから」
「手続き、大変でしょう?」
「有給使えるし」
伊織が、性を変えたいと言った。
伊織の方が、手続きのための時間が取れる。
それだけの合理的な理由だった。
生活が変わるわけでもない。
それでも、この紙切れ一枚が、これからの時間の重さを確かなものにする。
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絵里奈は婚姻届を静かに畳み、引き出しに戻した。
帰り支度を整えて、支店を出てから、社員カードでセキュリティをかける。
出入り口の扉は全て電子施錠だ。
絵里奈は、自宅マンションへ歩き出した。
市役所の窓口。
番号札の電子音が鳴り、二人の番が来る。
書類を差し出した伊織に、職員が淡々と確認を進める。
「では、新しいご姓は……水原、でよろしいですね?」
その言葉に、絵里奈は横で小さく息を呑んだ。
伊織は一瞬だけ視線を落とし、そして静かに頷いた。
「はい」
その声は、驚くほど落ち着いていた。
職員が書類を処理している間、二人の間に、短い沈黙が落ちる。
絵里奈は、窓口の硬い椅子に座りながら、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
「伊織」
「何?」
「ありがとう」
「こちらこそ、ありがとう」
職員が書類を返しながら言う。
「はい、これで氏名変更の手続きは完了です。お疲れさまでした」
窓口を離れたあと、伊織は少し照れたように笑った。
「二度目だけど、悪くない」
「そうね」
短いやり取りだけだったが、今日という日が、記念日になった。
その後、絵里奈は、伊織と遅めのランチに来ていた。
今日の伊織は、割とカジュアルな出で立ちだった。
午前中に仕事してきたせいか髪型はわりと自然な感じだ。
勿論、チープさは出ておらず、そこはかとなく品もある。
本社に絵里奈を迎えに来たあの日は、伊織は銀狼と呼ばれていたが、今日の感じは全く違った。
鎧を纏っていない時の伊織の姿で、本来持ってる性質なのかもしれない。
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絵里奈は、あの借金返済中の日々で、男という生き物を理解した。
どんな男も、本能に従って生きている。
どれほど理性的に振る舞っていても、
その奥には必ず、獲物を求める衝動がある。
それは狩猟本能と呼ぶべきものだった。
だから女は、本能的に、
強そうな男に一瞬は惹かれる。
だが、強さには終わりがない。
強さだけを求めるなら、
より強い男を、際限なく探し続けることになる。
現実がそうならないのは、
女が本当に求めているものが、強さではないからだ。
女が欲しいのは、安定だった。
子を産み、育てるという営みには、
安心できる居場所が必要になる。
優しさは、一時的に取り繕うことはできる。
だが、本能が満たされた後もなお続けられるかどうかで、
本物かどうかが分かる。
伊織は、優しさを持っていた。
それは生まれつきのものではない。
痛みを知っているからこそ、
身についた優しさだった。
ただ、その優しさゆえに、伊織自身は削られてきた。
自分を犠牲にしてまで相手のために生き続けてきたのだ。
若い頃の絵里奈は、そんな伊織の優しさに気づくことが出来なかった。
絵里奈は思った。
その優しさに、女を愛せるだけの強さが加わった時、
伊織はどうなるのだろうかと。
伊織も変わってしまうのかもしれない。
だが、伊織は変わらなかった。
真の優しさを持つ男だった。
絵里奈は、それを僥倖だと思った。
離婚した時、孤独は受け入れる覚悟をしていた。
仮に男と関係を持つことはあったとしても、愛情を求めるつもりはなかった。
片桐の交際の求めにも、応じなかった。
伊織は、いつの間にか、その温かな優しさで絵里奈の心を包み、凍りついていた感情を溶かしていた。
それは、今も変わらなかった。
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「この後、どうしようかな?」
伊織が絵里奈に聞いてくる。
「帰ろうよ、用事が無ければ」
その日は、他に用事が無かった。
伊織は、一度絵里奈をマンションに降ろして、 車を置きに家に戻った。
その後、絵里奈のマンションに寄ってから、二人でディナーに出かけることにした。
地方のホテルではあるが、最上級のレストランを予約してある。
今日が、結婚記念日になる。
服装はある程度決めていたが、思っていたほど堅苦しい雰囲気ではなさそうだった。
ホテルのレストランに入り、席に案内される。
「乾杯」
ワイングラスが、静かに触れ合った。
「今日の絵里奈も、綺麗だ」
「……ありがとう、伊織」
大切に思っていても。
愛していても。
言葉にしなければ伝わらないことがある。
伊織は、良い言葉を惜しまなかった。
綺麗だ、素敵だ、愛している、ありがとう。
代わりに、悪い言葉が浮かんだ時は、
口を閉ざした。
それは簡単なことではなかったが、
生活に余裕が生まれるにつれ、
自然と減っていった。
世界でたった一人、愛する絵里奈の前で、
自分の価値を貶める真似はしたくなかった。
「最上階のラウンジに行ってみたい」
絵里奈がそう言うと、伊織は黙って立ち上がり、手を差し出した。
その手を取った瞬間、その温度が、今日という日を、確かなものにしていた。




